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    2014/03/14(金) 01:36:25 ID:Vm/fuyqAO
    太平洋戦争直前から敗戦までの日本陸軍戦闘機の流れを説明した中で一旦、三式戦闘機と五式戦闘機のことだけ割愛していましたのでこれらについての画像を貼りですね。
    上から
    ・三式戦闘機飛燕の兄弟みたいな試作機キ60
    ・キ61三式戦闘機飛燕一型
    ・キ61-Ⅱ三式戦闘機飛燕二型
    ・キ100五式戦闘機
    全て川崎飛行機の戦闘機です。


    日本の陸軍でも同盟国ドイツでの戦闘機開発の進化には敏感になっており世界の趨勢が巴戦重視の戦闘機から一撃離脱戦法重視の戦闘機へと移行しつつあることをうすうす感じてドイツのダイムラーベンツDB601液冷式エンジンのライセンス購入に動き、これを国産化して搭載した一撃離脱戦法重視の戦闘機を模索していました。
    そこでDB601装備のメッサーシュミットBf109E戦闘機をドイツからサンプル機として輸入し研究、DB601の国産版の川崎八40を装備した試作機キ60とキ61を試作(キ60とキ61の主な違いは主翼の長さと面積を全く別物にして飛行特性を変えていました)、Bf109Eとキ60とキ61とキ44二式単座戦闘機鍾馗の試作機これらを性能特性比較を行っていました。
    それぞれ模擬空中戦もしていました。
    その結果Bf109Eは一撃離脱戦法用戦闘機としてドイツが開発しただけあって一撃離脱戦法に徹する限りは優れていて、キ60は翼面積が類似していたこともあり最もBf109Eに近い飛行特性を示しました。
    Bf109Eにほぼ近い飛行特性の戦闘機をわざわざ日本で作って日本陸軍が使用してもあまり意味がなく、結局は日本伝統の小回りが効いて巴戦に強く尚且つ一撃離脱戦法をも難無くこなす飛行特性を併せ持ったキ61が三式戦闘機飛燕一型として採用されキ44も二式単座戦闘機鍾馗として採用される結果となりました。
    次に八40を更にパワーアップした八140を飛燕の機体に搭載して三式戦闘機飛燕二型が作られたました。
    しかし以前お話した通り日本陸軍の見通しの甘さが起因してDB601の国産化版八40は失敗しており、その改良版の八140も失敗作となって故障とトラブルの連続でした。
    そのため川崎飛行機の工場ではエンジンのない首なし飛燕の機体だけが大量に並ぶ事態にまで陥りました。
    その後に開発された救世主的戦闘機がキ100五式戦闘機でした。
    工場に並んだ大量の首なし飛燕の機体を改造して1500馬力級空冷式エンジン金星の陸軍版を搭載して生まれ変わったのがキ100五式戦闘機でした。
    850km/hのスピードにも耐えられる飛燕の頑丈な機体に故障やトラブルが少なく整備もしやすい1500馬力級空冷式エンジンを搭載したものだから若干の最高速度の低下はあったものの扱いやすく高性能な新型戦闘機の誕生となりました。
    キ100五式戦闘機は第二次大戦最良の戦闘機だと評価されているアメリカのノースアメリカンP51ムスタングとも対等に戦える戦闘機として生まれ変わったのでした。
    戦争も終わりに近い時期の誕生だったため約半年あまりの活躍でしたがキ100五式戦闘機の終戦間際の活躍に対し陸軍大臣賞が出されたということもありました。
    改良版試作機には中間冷却器(車のターボエンジンでいえばインタークーラーにあたります)を省略した簡易版ターボチャージャーを搭載したキ100-Ⅱ五式戦闘機二型があり結果は難航を極めていた他のターボチャージャー研究機とは異なり概ね良好な性能を発揮しました。
    しかし登場が遅きに失し日本は敗戦となってしまいました。
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