ソロモン諸島上空を飛行する零戦二二型
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ヘルシアさん、権兵衛さん、おはようございます。
m(_ _)m
坂井三郎氏はガダルカナル戦でアメリカ海軍のダグラスSBDドーントレス艦上爆撃機の8機編隊に近付き過ぎて、気付けば後方50mの範囲内に入ってしまったため合計16丁の7.62m旋回機銃の猛烈な銃撃を受けて右ゴーグルから入った銃弾が頭部を掠め重傷を負い右目の視力を失ったそうですね。
出血もひどく手足の麻痺もあったそうですから、よくそんな状態で生きて還れたものだと驚きます。
画像は7.62m後方旋回連装機銃を備えたダグラスSBDドーントレス艦上爆撃機です。 -
まぁ銃器に興味のあるワイでも市民が護衛の為に拳銃等を所持する国は、衰退の一途を辿ると思うな。
アメリカ文化が好きなワイにとっては、
ホビーとしての銃器が数多くある状況とそれゆえに市民が犯罪の犠牲になるという二律背反的な事象は、決して好ましいとは思わんねんな。
ほんでやな坂井三郎中尉は、海軍戦闘機搭乗員になるべく戦艦勤務の水兵から航空兵を目指した努力な人で、その人間性や理不尽な出来事を甘受しない一途な性格に日本人としての矜持を感じる事ができて、数多くの著書を熟読したものや。
敵兵にも哀れみをかけ、特筆すべきは作戦行動中に遭遇した敵輸送機を見方基地に強制着陸か従わなければ撃墜かの措置を取るべく、その輸送機に接近したところ窓越しに婦人と五歳位の女の子が怯えた表情でこちらを見ているのを確認し、中学時代の英語の先生であった女性教師を思い出して即座に輸送機の機長に行きなさいと指示をして見逃した事例があって、本人曰く軍人とした失格であったけどその時だけは軍紀より人間性を優勢したとの事やってんな。
坂井中尉は、零戦21型が最も優勢を誇った頃のガタルカナル進攻初日に戦傷のため戦列を離れ、それ以降の米軍が新型戦闘機を逐次投入し零戦の優位を脅かす戦況は経験しておらず、零戦21型以降の各タイプの零戦やその武装に付いてての所見は、かなり割り引いて聞かんと零戦とその戦闘方の実相を見誤る場合があるねんな。
また復帰後、紫電改部隊に若年搭乗員の指南役で配属されたけど米軍機との死闘に生き残った歴戦搭乗員との間で意見の食い違いが生じて、煙たがられていた事も確かやってんな。
20ミリ四門を装備した紫電改そのものも
をエンジンの管制が難しく米軍機に対する戦闘力は零戦に及ばない旨の発言をしていたんやな。
しかし史実は、二機の零戦に対し紫電改単機をもって優位に立てる高性能な機体やな。
つまり零戦21型が絶対優位の状況から次第に米軍機が高性能化する戦況の変化を命を的に感じ取り、戦闘方に反映しなければいけない大事な時に戦列を離れた為、新しい空戦方の体系に追従できんかったんやろな。
中支戦線で活躍した歴戦搭乗員が教員時代を経て南方の最前線に配属され米軍機との緒戦で未帰還になる場合が多々あった事がこの事を物語っているわな。
しかし不撓不屈の精神力と戦闘機搭乗員としての矜持には感銘を覚える事があるねんやな。
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0さん、権兵衛さん、こんばんは
このいつもチャンネルで、
戦闘機の知識人に会って 大変貴重な体験しています、あらためて御礼を申し上げます、
また、そんなに零戦に知識がない私は、
携帯サイトをたまたま見て 投稿しましたが、
こんなに奥が深いとは…。二人に影響されて、とうとう零戦の専門紙を買ってしまいました、
坂井三郎は 権兵衛さんのおっしゃるとうり
帰投後 上官の笹井に対し『敵機を追捕せんとするも雲中に見失えり』
明らかな背命行為 軍率違反で、重罪ですね
坂井三郎は固く沈黙を守ったとか、
戦後もこれについては固く沈黙した、
終戦から半世紀たって、考えを改め、ある講演会で告白した、
すると思いもよらない事起きていた、
ちょうど同じ頃、機内で娘を抱き締めていた、元看護婦の母親が、私達を見逃してくれた日本の搭乗員に会いたい、と
赤十字などを通じて坂井を照会していたそうで、
こうして坂井と彼女は奇跡な再会を遂げて互いの無事を喜びあった
と本にありました、
坂井三郎は時には軍規を破っても、守る何か
正に大空のサムライですね、 -
余談ですが、の歴史カテゴリーで、私が万次郎ハンネで投稿している時に、
私を擁護して頂き、大好きな方で
その方のハンネは「下石」さん でした、
雰囲気が何となく、権兵衛さんに似ています
まちがってたらごめんなさい、 -
ワイは軍カテにしかしゃしゃり出てないので違う人やな。
まぁ零戦を問わず軍事技術が戦後の優れた民生品を生みだす礎になり、その技術の系譜は21世紀の今に至り脈々と続いてるねんな。
50年以上前に各国の鉄道技術者達は200キロの巡航速度は振動問題で不可能とされていたけど、これに挑み新幹線を誕生させた技術者もかっては零戦の振動問題、則ち主翼フラッターを学術的に解明した功績のある人やな。
航空後進国の日本にあって零戦を開発した設計した設計陣と
それを形作った技術 達、そして零戦で駆け巡った大空の若武者達…。我々日本人の中にこれらの研ぎ澄ますた優秀なDNAが流れていると思う時、零戦を見ると何故か誇らしさを覚えるんやな。
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権兵衛さん、私の勘違いで失礼しました
戦後半世紀以上たった現在の 我が国の発展は
零戦の技術者達の発想が脈々と引き継がれ、
コンニチに至るわけですね、
私は小学生のころ、
アメリカは 自動車の生産国としては、世界一と
習いました、
「零戦燃ゆ」の映画でもあったように、「自動車も、まともに造れん日本が我々より航続距離の長い戦闘機などあり得ん、空母が必ず近海にいるに違いない」
とマッカーサーが言っていたのを思い出します、
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こんにちは(゚▽゚)/
当時、飛ぶ鳥を落とす勢いといわれた旧大日本帝國海軍台南航空隊零戦パイロットたちの記念写真をカラー化したものを貼ります。
零戦のエースパイロットとして有名な坂井氏、東洋のリヒトホーフェンとも呼ばれた笹井氏も写っていますし、バックには零戦も写っています。
アメリカ軍、イギリス軍戦闘機なんぞ何のその、向かうところ敵無しだった時代の写真。 -
0さん、いつも貴重な画像ありがとうm(__)mです
台南航空隊、
勇ましいですね、 -
零戦が最強であった頃の誇らしげな一葉やな。
この頃の零戦は、作りが丁寧で外板の歪み等が一切なくツルツルしていたそやな。 エンジンの稼動率も非常に高く、最初の30分が調子良ければ後は、燃料が切れるまで絶好調やったそや。
後半の52型は戦闘力が向上したけどエンジンの稼動率が低下し、機体の作りも若干、荒くなったのが
21型に慣れ親しんだ搭乗員が違和感を覚えたかもな。
写真は二列目の右から二人目が吉田一報道班員でこの時は飛行服を借りてカメラに収まりセルフタイマーで撮ったそや。
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お二人とも、ご存知だと思いますが
第二次大戦、終りごろ
ドイツの戦闘機、
メッサーシュミット製
プロペラ機ではなく、ジェットエンジン、の
「ME・262」が あったそうです、
デスカバリチャンネル で昨日放送されました、
↓↓
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用途:戦闘機
分類:艦上戦闘機
設計者:堀越二郎
製造者:三菱重工業
運用者: 大日本帝国(日本海軍)
初飛行:1939年(昭和14年)4月
生産数:10,430機
運用開始:1940年(昭和15年)7月
退役:1945年(昭和20年)8月