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立場の違いで受け取り方は様々なのでどれが一番正しいというのはないのかも知れません。
大和級戦艦に代表される大艦巨砲主義の艦艇ですが当時は世界中の常識が大艦巨砲の戦艦をたくさん持っていることが現在でいう核ミサイルをたくさん持っていることと同じだったため、その国の国力と威信を示すバロメーターだったのです。
世界中の有識者の大半が有り得ないと主張していた航空機による攻撃で戦艦を沈めるという方法を世界に先駆けて実証した日本海軍でしたが当の日本軍内部にも大艦巨砲主義を崇拝する勢力が多く存在していました。
軍上層部の大多数の人々には未来のビジョンが見えていなかったため、たとえ正しいことを主張していても風変わりなことを主張する者は変人扱いされて邪険にされていたわけでした。
日本軍内部では全体の兵器体系でいうと大艦巨砲主義が有力で戦闘機でいうと一撃離脱方式の戦闘機よりも巴戦オンリーの戦闘機が有力とう凝り固まった考え方の状態でした。
改革派より保守派が牛耳る世の中だったということでしょう。
艤装中の戦艦大和
昭和十六年九月二十日
呉軍港
の写真を貼ります。
よく見ると艦首方向までよく写っています。
艦首方向の向こうがドックの出入口ですが何かカーテンのような物で仕切られています。
戦艦大和関連の書籍類に事あるごとによく出て来る棕櫚縄で編まれた巨大カーテンの目隠しです。
外から大和の船体を見られないように隠し、周辺の高台や山々には憲兵などを多数配置し警備して機密保持に心血を注いでいたらしいです。
当時、このために棕櫚縄を大量に買い付けたため棕櫚縄が希少な物になり市場から棕櫚縄が消えうせてしまうという現象も引き起こしていました。
ちょっと感の鋭い人なら一般人でも今何か起こっているようだなと気付いたでしょうね。
戦争の前触れとはそういう日常生活の些細な変化から読み取れるといいますから。
予算の消費や物の買い占めや大量の人員の動員など大和建造に費やした全ての労力を考えると無駄遣いといわれても仕方ないところもあるかも知れません。
しかし当時はそんな時代だったとしかいえませんね。