347 ヘルシア 2014/03/20(木) 00:44:36 ID:QRyIYj72O いろんなご意見もあると思いますが、サイトよりコピペです、↓↓↓このときの作戦で攻撃隊指揮官となった野中五郎少佐は、「激戦の中で、部下を死なせない」ことを誇りとした指揮官です。けれど、彼はひとりだけ部下を失ったことがありました。夜間攻撃で、敵の船に魚雷を撃ち込むために海面すれすれに飛行したところ、いきなり横から割りこんできた敵の別の船にあやうく衝突しそうになったのです。彼は、急上昇してこれを避けようとしました。けれど、そのとき一式陸攻の尾翼が海面を叩き、後部銃座にいた部下がその衝撃で吹っ飛んでしまったのです。数多くの航空線を戦いぬいた野中少佐の、それが唯一の部下の損失でした。彼はそのことにずっと悩み、二度と部下を、絶対に死なせないと誓っていました。彼は最後の突撃で、自らの命を失う日まで、その一時以外、いっさい部下を失うことはありませんでした。その彼が、最後の出撃のとき「湊川(みなとがわ)ですな」という言葉を残しました。「湊川の戦い」というのは、建武3(1336)年の足利尊氏と楠木正成の戦いですね。いったん九州に疎開した足利尊氏が、3万5千の大軍を率いてやってくる。迎え討つ楠木正成は、わずか7百の手勢です。勝てる見込みはありません。楠木正成は、このとき「正成存命無益なり、最前に命を落すべし」と語り、5月25日、湊川で両軍は激突し、多勢に無勢ななか、六時間におよぶ激しい戦いの後、正成軍はわずか73人になってしまいました。最期をさとった正成は、生き残った部下とともに民家に入り、七生報国を誓って全員自刃しています。野中大佐が「湊川」に例えたということは、彼がこのときの出撃がどういうものであるかを充分に悟っていたということです。 0 0
いろんなご意見もあると思いますが、サイトよりコピペです、
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このときの作戦で攻撃隊指揮官となった野中五郎少佐は、「激戦の中で、部下を死なせない」ことを誇りとした指揮官です。
けれど、彼はひとりだけ部下を失ったことがありました。
夜間攻撃で、敵の船に魚雷を撃ち込むために海面すれすれに飛行したところ、いきなり横から割りこんできた敵の別の船にあやうく衝突しそうになったのです。
彼は、急上昇してこれを避けようとしました。
けれど、そのとき一式陸攻の尾翼が海面を叩き、後部銃座にいた部下がその衝撃で吹っ飛んでしまったのです。
数多くの航空線を戦いぬいた野中少佐の、それが唯一の部下の損失でした。
彼はそのことにずっと悩み、二度と部下を、絶対に死なせないと誓っていました。
彼は最後の突撃で、自らの命を失う日まで、その一時以外、いっさい部下を失うことはありませんでした。
その彼が、最後の出撃のとき「湊川(みなとがわ)ですな」という言葉を残しました。
「湊川の戦い」というのは、建武3(1336)年の足利尊氏と楠木正成の戦いですね。
いったん九州に疎開した足利尊氏が、3万5千の大軍を率いてやってくる。
迎え討つ楠木正成は、わずか7百の手勢です。
勝てる見込みはありません。
楠木正成は、このとき「正成存命無益なり、最前に命を落すべし」と語り、5月25日、湊川で両軍は激突し、多勢に無勢ななか、六時間におよぶ激しい戦いの後、正成軍はわずか73人になってしまいました。
最期をさとった正成は、生き残った部下とともに民家に入り、七生報国を誓って全員自刃しています。
野中大佐が「湊川」に例えたということは、彼がこのときの出撃がどういうものであるかを充分に悟っていたということです。