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    2014/03/08(土) 05:13:07 ID:4CUGkbuMO
    ヘルシアさん、おはようございます。(゚▽゚)/
    海軍の三菱零戦にならび活躍した戦闘機として陸軍の中島一式戦隼がありますが、その中島飛行機㈱で一式戦闘機隼や二式単座戦闘機鍾馗の設計に携わっていたという糸川英夫技師のコメント映像を見たことがあります。
    糸川英夫技師は日本のロケット開発の父とも呼ばれた人で太平洋戦争後はロケット開発で日本の宇宙開発に多大な貢献をしたことで知られた人物でした。
    つい何年か前に探査機を使って移動している小惑星上に着地し小惑星の砂を回収して地球へ持ち帰るという世界的快挙を日本のJAXAがやってのけましたが、糸川氏の日本の宇宙開発における多大な貢献からその惑星探査機にハヤブサという名前が付けられたり、探査する小惑星がイトカワと名付けられたりしています。
    そのコメント映像の中で糸川氏は隼や鍾馗の開発をした時期前後の話から当時の苦労話までいろいろと語られていました。
    そしてその中には零戦を開発した三菱の堀越二郎技師の話や零戦の話も出て来ました。
    糸川氏がいうには同じ戦闘機設計技師という同業者として見ると堀越氏は非常に真面目でキッチリやらないと気が済まない性格の人だったと。
    堀越氏が設計した零戦はドイツのゲッチンゲン大学のプラントル教授の翼の理論というのをキッチリ守って設計されていると。
    堀越氏は非常に真面目な人だから優等生的にキッチリ守って設計されてますねぇ。
    といわれていました。
    無理難題ばかり命令して来る軍側と渡り合いながら隼で苦労し、また隼とは真逆の性格の戦闘機鍾馗でも苦労した糸川氏は私だったら真面目にキッチリ理論を守って設計するというのは出来ませんといわれていました。
    糸川氏は隼の前の陸軍主力戦闘機である九七式戦闘機でも陸軍側から無理難題の命令を突き付けられて大変苦労したことも語られていました。
    とにかく技術的な理論だけを守っていたら軍側から突き付けられて来る無理難題の命令には対応出来ないといわれていました。
    技術者たちが「やっちゃダメよ」ということは必ずといっていいほどいうことを聞かないのが軍でしたと。
    禁止されたことは守らないのに何か問題が起きると技術者たちを呼び付け「お前たちの会社が作る戦闘機は不良品じゃないか!」と怒り付ける人がほとんどだったというお話で、今でいうところのモンスタークレーマー(執拗に文句ばかり付けて絡んで来る客)みたいな存在だったようです。
    時は折しもノモンハン事変から太平洋戦争と戦争の続く時代真っ只中でしたからたとえ正論であっても一言でも口答えすると「貴様はお国を守る兵隊さんに歯向かう気かあ?」となるのがごく当たり前の時代だったそうです。


    上から順番に中島一式戦闘機隼、二式単座戦闘機鍾馗、晩年の糸川英夫氏の画像を一枚貼りますね。
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    2014/03/08(土) 05:59:13 ID:4CUGkbuMO
    中島飛行機㈱は現在のスバル自動車の前身の会社。
    中島飛行機㈱は中島知久平という人が社長だった会社。
    陸軍の一式戦闘機隼は九七式戦闘機の後継機で海軍の零戦に近い設計思想で造られ零戦に類似した性能を示した巴戦に強い戦闘機でした。
    隼が搭載していたエンジンは八-25といい零戦が搭載した栄一二型エンジンの陸軍バージョンでした。
    二式単座戦闘機鍾馗は海軍の三菱雷電と同じ用途を目指して造られた対大型爆撃機用の迎撃用戦闘機でした。
    鍾馗も雷電と同じく高い最高速度と高い上昇能力を第一優先に設計されたため爆撃機用の直径の大きな空冷エンジンを搭載した割に主翼面積が小さい作りの戦闘機でした。
    陸軍も海軍もスピードを最重要視した迎撃用戦闘機を要求しながも高い空戦能力も同時に要求したため鍾馗は蝶型フラップを装備、雷電はファウラーフラップを装備して小回りを効かせられるように設計されていました。
    同じような条件、同じようなコンセプトで造られた両機でしたが、中島の鍾馗は大きな機首から後ろに向けて急激に絞り込んでいく設計、対する三菱の雷電は大きな機首を紡錘形に整形した設計で、どちらの設計も設計技師たちの独自な個性が滲み出ていました。
    結果的には終戦後に両機ともアメリカ軍にテストされ、鍾馗も雷電も迎撃用戦闘機としては最高な戦闘機だと高い評価を得ていたそうです。
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