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宇宙の果てには何もない「無」です
宇宙は、できてから137億年たっており、137億光年先を見ると、
ビッグバン当時の爆発の輻射が、(その光速に近い後退速度に
よって2.7Kに間延びして)見えています。
その爆発によって噴き出した宇宙の一番「端っこ」は、あなたのいる所です。
また、その137億光年向こうに立って見ると、あなたの立っている所が、
137億年前の姿=「爆発の輻射」の壁の一部に見えるのです。
その「自分を中心とした半径137億光年の球面」は、ビッグバン開始時の
点であり、「ここ」も含まれているのです。
「こっち側」は、時間的に収束していますが、「むこう側」は、空間的に収束し、
両端で点に収束していて、そんな葉っぱのような形を張り合わせて地球儀を
作るように、この宇宙も球の表面(ただし四次元空間における三次元球面)
のように果てはないのです。 -
本来、ビッグバンの慣性で膨張しているのであれば、重力によって
減速して、その「宇宙寿命光年先のビッグバン当時の輻射」は、
晴れ上がってもいいのですが、ずっと見えている不思議に対して、
「加速している」とか「ビッグバン初期に超光速で飛散した」とか、
諸説が唱えられています。
しかし量子論的に考えると、認識によって宇宙が生じる=自己
(現在/感受/光速)から過去(記憶/時間/超光速)と
未来(予測/空間/光速下)が対発生していると考えれば、
その基底としての時空が広がる(時間経過=空間膨張)のは
当然のことです。
我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、
「存在するのは現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の
感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験
(過去=超光速)による予測(未来=光速下)として時空的
広がりは発生しているのです。 -
全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に
つめこむと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限のゼリーの
中に、仮想的な認識体の断面を切ると、その認識体にとって、
相補的不確定性を伴う存在による宇宙が見えます。
しかしその「存在」は、認識される階層的現象の表面的に生じる
もの(自我仮説に対する相補)で、根源的に絶対化しようとすると、
元の無限不確定性に発散します。
実は、相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対に
よってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。
客観的時空や絶対的存在というのはない、というものです。
認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。
その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動(プランク定数hの
収束の時系列化)を想定すれば、相対的に無の風は光になり、
認識体はその光の向うに、自我仮説の補完としての時空仮説
=宇宙を認識します。
即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補として
生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影として、
存在は生じていると言えます。
無いとは分からない事が有なのです。
だから「その外」や「その前」は、何もなくて当然です。
望遠鏡を覗いて137億光年が宇宙の果てと決めた訳ではないです
137億光年と言うのは、ハッブルの法則に従って膨張が始まった時刻を計算により証明したものです
宇宙論においてビッグバン理論を証明する観測的な支柱が三つあると言われています。それは、銀河の赤方偏移に見られるハッブル則的な膨張と、宇宙マイクロ波背景放射の詳細な観測、それに軽元素の存在量です。これらに加えて、宇宙の大規模構造の相関関数の観測も標準的なビッグバン理論と一致しています。