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戦艦大和の場合は広島の呉でしたが二番艦の戦艦武蔵の場合は長崎、長崎でも同様にして機密保持に心血を注いでいたそうです。
近くを通る列車も造船所の近くを通過する際は常時乗車していた憲兵の命令で造船所側の窓はカーテンを下ろし見えなくするように徹底されていたそうです。
棕櫚縄の件など直接その地域に住んでいなくてもちょっと頭を働かせれば何か普通ではないことが進行中なことが想像できるくらいですから近隣地域の人たちは公な場では口には出さないけど知っていました。 -
書き忘れていました。
↑の添付写真の画面右側に写っているのは空母鳳翔の艦首部分です。
空母鳳翔は日本初の空母であり世界初ともいわれています。(掲載書籍次第で書かれ方が違い世界初ではないとするものもあります。)
いずれにしても世界的に航空母艦が誕生し始めた初期に建造された実験空母的性格の空母です。
日本海軍はこの鳳翔を使って船体や甲板や艦上構造物や艤装品などなどどういう物をどういうかたちで装備するのが一番最良なのかを試行錯誤しながら実証実験してその後の空母建造に役立てたのでした。
艦橋や煙突もどの場所にどんな風に設置したら一番良いのかもこの実証実験結果から決定されていきました。
そういう歴史の流れがあり空母の艦橋や煙突は右舷艦首寄りに設置するというのが常識化しています。
それは現在でも世界的な常識となっています。
空母開発の過渡期に建造された空母は左舷に設置している艦も存在しますが極めて少ない稀な艦といえます。 -
ヘルシアさん、お早うございます。(゚▽゚)/
ヘルシアさんが零戦と飛燕の違いが判らないということでしたので零戦二一型と飛燕Ⅰ型の同一縮尺での比較三面図と零戦二一型透視図解と飛燕Ⅰ型透視図解を貼りますね。
両機ともそれぞれ全く違う特徴が一目瞭然だと思います。
どちらも全幅、全長はほぼ同じですが機体形状、胴体の太さ、主翼の広さ、正面面積の狭さがまるで違い、これに重量とエンジン出力の違いが合わさり飛行性能と飛行特性はまるで違うものになりました。
そもそも艦上戦闘機と陸上戦闘機というだけでも要求される性能や特性が異なるため出来上がるものに違いが出るのは自然な流れでした。
立場の違いで受け取り方は様々なのでどれが一番正しいというのはないのかも知れません。
大和級戦艦に代表される大艦巨砲主義の艦艇ですが当時は世界中の常識が大艦巨砲の戦艦をたくさん持っていることが現在でいう核ミサイルをたくさん持っていることと同じだったため、その国の国力と威信を示すバロメーターだったのです。
世界中の有識者の大半が有り得ないと主張していた航空機による攻撃で戦艦を沈めるという方法を世界に先駆けて実証した日本海軍でしたが当の日本軍内部にも大艦巨砲主義を崇拝する勢力が多く存在していました。
軍上層部の大多数の人々には未来のビジョンが見えていなかったため、たとえ正しいことを主張していても風変わりなことを主張する者は変人扱いされて邪険にされていたわけでした。
日本軍内部では全体の兵器体系でいうと大艦巨砲主義が有力で戦闘機でいうと一撃離脱方式の戦闘機よりも巴戦オンリーの戦闘機が有力とう凝り固まった考え方の状態でした。
改革派より保守派が牛耳る世の中だったということでしょう。
艤装中の戦艦大和
昭和十六年九月二十日
呉軍港
の写真を貼ります。
よく見ると艦首方向までよく写っています。
艦首方向の向こうがドックの出入口ですが何かカーテンのような物で仕切られています。
戦艦大和関連の書籍類に事あるごとによく出て来る棕櫚縄で編まれた巨大カーテンの目隠しです。
外から大和の船体を見られないように隠し、周辺の高台や山々には憲兵などを多数配置し警備して機密保持に心血を注いでいたらしいです。
当時、このために棕櫚縄を大量に買い付けたため棕櫚縄が希少な物になり市場から棕櫚縄が消えうせてしまうという現象も引き起こしていました。
ちょっと感の鋭い人なら一般人でも今何か起こっているようだなと気付いたでしょうね。
戦争の前触れとはそういう日常生活の些細な変化から読み取れるといいますから。
予算の消費や物の買い占めや大量の人員の動員など大和建造に費やした全ての労力を考えると無駄遣いといわれても仕方ないところもあるかも知れません。
しかし当時はそんな時代だったとしかいえませんね。