ソロモン諸島上空を飛行する零戦二二型
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映画
「連合艦隊司令長官、山本五十六」
TSUTAYAで借りました、
戦艦大和 の雄姿 -
連合艦隊←×
聯合艦隊←〇
訂正です、 -
おお〜
いいですね〜
ヘルシアさんこんばんは。
(゚▽゚)/
電波探信儀(レーダー)が未装備だし、最上級重巡洋艦改装に伴い撤去、大和級戦艦に移設した15.5cm三連装砲が四基装備された状態のようですから初期の頃の大和級戦艦の勇姿ですね。
大和級戦艦が最もシンプルな姿をしていた時期のものです。
その後は航空機が優勢だという戦闘事例が次第次第に多くなり、装甲板が無いに等しい重巡洋艦の主砲塔を艦橋構造物の前後左右に設置しているのは被弾時は被害の危険性が非常に高いとして左右の15.5cm三連装砲塔は撤去され、代わりに対空機銃類を針ネズミのように装備するように改装されて行くこととなりました。
これも時代の流れでしょうね。
今では世界中どこを見渡しても戦艦を建造する国も使用する国もなくなってしまいました。
現代ではミサイル類が急速な発達を遂げていますから、もうそろそろ現代版の戦艦の復活があってもいい頃なんですが、どこの国も建造しませんね。
大和級戦艦の二番艦、武蔵を艦首方向から撮影した写真を貼ります。
就役前の公試運転時の撮影です。 -
↑世界最大の艦載砲である46cm砲の砲塔がドデェーンと腰を据えています。
現在でも世界最大というのは変わっていません。
当時の軍事機密保持の努力が凄まじかったためアメリカ軍もこれが46cm砲であったことを知らず、戦後になって初めて真実を知ったようです。
大和級戦艦は最大の武装を出来るだけコンパクトな船体に搭載することを主眼に設計されました。
実際は満載排水量72000tもある世界最大の戦艦でしたがアメリカ軍は何度も偵察写真などを撮影していたにもかかわらず満載排水量40000t程度の戦艦だと見誤っており、これも真実を知ったのは戦後になってからのことでした。
当時の日本人の努力により敵はことの真相を掴めずにいたことになります。 -
大和級戦艦であっても数百機もの航空機攻撃の前には遠からず沈められたであろうことは確かですが、敵の装備の真相を知らないままに交戦していたアメリカ軍は一歩間違えば大損害を被っていた可能性はありました。
天候が良い状態で戦艦同士の撃ち合いをしていたらアメリカ海軍の戦艦は多数が撃沈されていたでしょう。
何せ、アメリカ軍は大和級戦艦が世界最大の主砲を搭載した世界最大の戦艦だなどとは思ってもいなかったわけですから。
一歩間違えば大損害だったわけです。 -
さすが0さん、
大和の画像は、ミッドウェー海戦で、途中から引き返す 所を 撮りました、
装備で、いつ頃の大和か わかるのですか、
おみそれいたしました、おそらく0さんの家は
戦争の本でいっぱいでしょうね、 -
大和級の、46センチ砲を
全部、真横(90度)に向け同時一成に発砲したら
大和はひっくり返ると
聞いたことがあります、
本当でしょうか?
日露戦争時代だと、
大和は 天下無敵だったでしょうね、
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ここで、ミッドウェー海戦、 大東亜戦争の分岐点ですね。携帯サイトに在りましたので↓↓
日本本土を爆撃された日本の海軍は、ハワイ諸島の西、アメリカ海軍の中継基地になっているミッドウェーを攻撃することでした。
当時太平洋にいた日本とアメリカの海軍の戦力は以下の通りでした(あくまでも太平洋にいた数だけ)。
日本ー アメリカ
空母 8 ー、3
戦艦 11ー 0
重巡洋艦 17ー 7
軽巡洋艦 7 ー1
駆逐艦 70余 ー11
戦力は圧倒的に日本のほうが上回っていた。この戦力差をミッドウェーに差し向けて普通に戦えば楽勝だった。ところが、結果は日本の連合艦隊は赤城、加賀、飛龍、蒼龍の航空母艦4隻を撃沈されて完敗を喫し。それどころか優秀なパイロットを三百数十名も失ってしまった。
空母は攻めるのは強いが攻撃されると弱い。だから空母には戦艦以下を張りつけて護衛に当たるのが常識ですが、日本がミッドウェーに向かわせたのは空母4隻とおざなりの護衛艦隊だけでした。
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また、空母4隻だけでなく、そのはるか後方500キロを戦艦大和などにミッドウェー方面に向かわせてました。なぜ、4隻の空母に張りつけて護衛させずに、500キロ後方を航行させていたのか。
戦艦大和は世界最大だけでなく、設備も装備も世界最新鋭だった。アメリカが空母4隻からなる日本の機動部隊を発見し、迎撃せよという命令を発する無線を日本はいち早く傍受していた。ところがその内容を4隻の空母には何も伝えていない。
500キロも離れていたため当然ミッドウェー海戦には間に合わず、空母4隻が全滅したという知らせを聞いて空しく引き返すという間抜けなことをやっている。もともと戦艦大和はミッドウェー海戦に参加するつもりなどまったくなかった。ではなぜ500キロもの後方でミッドウェーに向かうような航行をしたかといえば、一応戦闘に参加したという格好をつけるためだった。瀬戸内海にいては、階級が上がるキャリアにもならないし、戦闘参加手当ても出ない。そこで昇進の機会と戦闘参加手当てを得るために、そんな工作をしていたというわけです。
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ミッドウェーはアメリカにとって勝てるはずのない戦いだったが、この海戦がアメリカが勝利するための分岐点だった。ミッドウェーでアメリカが負けていたら、ハワイは持ちこたえられないから、アメリカは全軍をカリフォルニアに集結して防衛に当たるしかなかった。そうするとヨーロッパには手が回らないからイギリスはドイツに降伏する。となるとアメリカはヨーロッパでも太平洋でも勝てず、講和を結ぶしかなかったかも。
日本海軍のマヌケな行為により大東亜戦争の勝利が消えてしまった。
こんな大失態を演じたにもかかわらず、機動部隊司令長官も連合艦隊参謀長も失脚すらしなかった。日本の官僚の無責任は今に至るまでまったく変わっていない。
ミードウェー開戦と同時期に行なわれたアリューシャン列島作戦で、アメリカは零戦をほぼ無傷のまま手に入れた。撃墜された飛行士は戦死したが、飛行機はほとんど完璧な姿のまま着陸していたのだ。
それまで零戦は無敵だった。制空権が勝敗を分けるといわれたこの戦争で、零戦はいつでも日本軍を有利に導いていた。その零戦をアメリカはくまなく研究し、新鋭機器の開発と大量生産に没頭することになる。零戦の優越性が失われるのも時間の問題となってしまった。
ミッドウェー海戦で熟練した飛行士が多数戦死し、さらに零戦がアメリカに研究されたことで相対的に日本の戦闘機の性能が劣ってしまった。この状況が、悲劇の神風特攻隊を生むことになる。
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用途:戦闘機
分類:艦上戦闘機
設計者:堀越二郎
製造者:三菱重工業
運用者: 大日本帝国(日本海軍)
初飛行:1939年(昭和14年)4月
生産数:10,430機
運用開始:1940年(昭和15年)7月
退役:1945年(昭和20年)8月