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太平洋戦争末期
沖縄へのアメリカ軍上陸を、阻止しようと、
沖縄を守ろうと、命を捧げた軍神、ですね、
間違ってたらすみません
上記 サイトより抜粋 -
きんたさんから、教えてもらってから、サイトより、です、→▲桜花(おうか)というのは、大東亜戦争の末期に実戦に投入されたロケットエンジンを搭載した特攻専用機です。
大東亜戦争の時代に、ロケットエンジン搭載の飛行機があったというのはすごい話ですが、この時代、「桜花」は、まだ自力で離陸することができませんでした。
なので一式陸攻の下に吊るされて敵地まで飛び、上空で親機から切り離されたあと、ロケットを噴射して、一直線に敵艦に向かって突撃したのです。
搭載する爆弾は、1200kg爆弾です。
通常の航空機による特攻の5倍近い威力の爆弾を搭載していました。
そして1040km/hという、音速に近いスピードで、一直線に敵艦に体当たり突撃しました。
成功すれば、その破壊力はすさまじいものです。ところが桜花の搭載したロケットエンジンは、一瞬で燃料を燃やしつくしてしまいます。
つまり、航続距離がありません。
桜花の航続距離は、わずか37kmです。
30キロというのは、上空と海上とでは、最早目と鼻の先です。
すぐそこに見える距離です。
そこまで近づいて、切り離されて、まっすぐに敵艦に向かいました。
桜花は、2トンを超える重量があります。
ですから、さしもの一式陸攻も、桜花を懸吊すると「飛ぶのがやっと」という状態になります。
つまり一式陸攻は速度が出ず、小回もきかなくなります。
ですから敵の戦闘機に襲われたらひとたまりもありません。
桜花を懸吊した一式陸攻は、戦闘機であるゼロ戦に警護を固めてもらって、敵艦隊に近づきます。
この頃の米艦隊は、特攻対策として高射砲の砲弾に「近接信管」を搭載しています。
「近接信管」というのは、砲弾を中心に半径15メートルに電波が発射されていて、その電波が飛行機を察知した瞬間に爆発するというものです。そして砲弾の中には、無数の鉄片が仕込まれていました。
近接信管を搭載した砲弾が、特攻する桜花の近くで炸裂した瞬間、パイロットは大怪我をし、あるいは即死し、機体は穴だらけになって吹き飛びます。
こうした近接信管を搭載した砲弾を、米艦隊は突入してくる桜花めがけて、一斉に何百発と撃ち込みました。
小回りを利かせ、敵砲弾をかいくぐらなければ、とても敵艦に近づけるようなものではありません。
けれど桜花は、速度が速いかわりに、一直線にしか飛べません。
米軍の間では、桜花は、「BAKA BONG(おバカ爆弾)」とあだ名されたといいます。
私達は航空戦の素人ですが、そんな素人でも、以上の説明を聞けば、桜花の出撃がいかに危険なリスクを負ったものかがわかりますね。
当時のパイロット達は、航空線のまさにプロフェショナルです。
しかも、航空兵に採用されるような人たちは、とびきり優秀なパイロットたちです。
プロであるがゆえに桜花作戦の危険性、無謀性は、私達より何十倍も承知しています。
それでも彼らは飛び立ちました。
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桜花の最初の出撃は、戦局押し迫った昭和20年3月21日のことです。この5日後には、沖縄戦が開始されています。
まさに米艦隊が、沖縄めがけて続々と押しかけてきていたときです。
日本としては、なんとかして敵の沖縄上陸を阻止し、遅らせ、民間人の避難を促進したいけれど、すでにこの時点で、帝国艦隊は最早壊滅し、空母もなく、沖縄近郊の制海権、制空権は、完全に奪われていました。
飛ばせる飛行機もない。飛行機を飛ばすためのガソリンも、残り僅かです。
この時期、日本の航空隊は、練習機に摘んだガソリンは、まともな石油ではありませんでした。
ひとことでいえば、いまでいうサラダ油をガソリンの変わりに積んで飛んでいました。
(↑↑↑本当かなぁ?)
戦後のことですが、米軍が日本陸軍の四式戦闘機「疾風(はやて・ゼロ戦の後継機にあたる)」に、米国製のオクタン科の高いガソリンを入れて飛ばしたところ、当時世界最強といわれたP51ムスタングよりも高い性能を示しています。
特攻する際は、それなりのガソリンを入れたものの、いまで言ったら、ハイオク使用の車に、軽油を入れて飛ばすようなもので、そもそも充分な性能を発揮させることができないという状況でもありました。
けれど、それでもなお、帝国は沖縄を守るために全力を尽くそうとしたのです。
圧倒的な兵力を持った敵に対し、わずかばかりの兵器で戦わざるを得ない。
かくなるうえは、問題点山積みの兵器とはいえ、「桜花」出撃やむなし、と判断せざるを得なかったという事情も背景となっていました。
万にひとつでも、攻撃を成功させれば、あるいは攻撃が成功しなくても、敵は日本本土から飛んでくる特攻隊への防戦に注力せざるを得ない。
そのために敵は、相当数の兵力を防備に割かざるを得ない。
そうなれば、米軍の沖縄上陸は遅れ、遅れた分、沖縄内では米艦隊からの艦砲射撃対策のための掩蔽壕や、民間人避難のための防空壕をほんのわずかでも強化できるし、戦場となりうるエリアから民間人を避難させることもできる。
だから「桜花」は飛び立ちました。
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時間がある方々は 読んで下さい、サイトからのコピペです
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沖縄戦では、多数の民間人が犠牲になられました。
このことがいまだに沖縄に暗い影を落としているといわれています。
けれど、よく考えていただきたいのは、本来、軍が戦闘をするとき、民間人がいては、軍はその機能を存分に発揮することができないということです。
ただでさえ、少ない兵力、乏しい戦力で戦わなければならない日本軍にとって、戦場に民間人がいたら、正直困ることになります。
ですから、軍は、沖縄戦に先んじて、沖縄の民間人の本土への疎開を遂行しようとします。
しかし、これに反対し、沖縄県民を戦地という危険に晒したのは、ほかならぬ沖縄県知事でした。
ともあれ、沖縄には、まだまだ多数の民間人が残っていたのです。
沖縄県民をひとりでも多く救うためには、本土に残るわずかばかりの兵力をもって、米軍に挑み、米軍の注意を本土側にそらしておく必要があります。
そのために「桜花」は出撃しまています。
それは昭和20年3月21日のことでした。
この日出撃した部隊は、桜花を懸吊した一式陸攻18機と、護衛のためのゼロ戦30機です。
部隊は、敵艦隊のはるか手前で、進撃中に敵艦隊にレーダーで捕捉されました。
そして上空で待ち構えたグラマンF6F戦闘機28機の待ち伏せにあい、迎撃されまています。
一式陸攻を守ろうとゼロ戦部隊が対空戦を挑み、一式陸攻がまる裸状態になったところに、別なグラマン部隊が襲いかかる。
そうして陸攻隊は全機が撃墜され、ゼロ戦隊も、30機中10機が撃墜されました。
無理をして一式陸攻から飛び立った桜花もあったけれど、飛距離が足らず、海中に没しています。 -
この戦いで後ろを取られ、必死で機体を左右に滑らせて射線をかわしながら、ついに被弾して一瞬で火を噴き爆発、桜花を吊ったまま墜落する一式陸攻の姿を記録したF6Fのガンカメラ映像が残っています。
翼をもぎ取られ落下する一式陸攻には、一機につき10名の歴戦の搭乗員が乗っていました。
そして全員が還らぬ人となりました。
この特攻について、後世の人たちからは、特攻を意思決定した宇垣纏中将に対し、たくさんの非難が寄せられました。
命を犠牲にして特攻を行うことを前提に出撃した桜花の搭乗員だけでなく、運搬役の一式陸攻まで全機未帰還となっているのですから、責任者の責任を追及する声が上がるのは仕方がないことだと思います。
しかし、上に述べたように、他に沖縄戦を阻止する効果的な方法がない中で、なにがなんでも敵の沖縄上陸を阻止することを至上課題とした当時の状況にあって、他にどういう判断のしようがあったのでしょうか。
防備のために同時に出撃した戦闘機ゼロ戦隊にしても、攻撃隊指揮官の野中五郎少佐が、護衛機70機を要求したのに、30機しか付けれなかった、という人もいます。
しかし、実際には、このときゼロ戦は、なけなしの飛行機のなかで、55機が出撃しているのです。
この時点では、整備できている飛行機「ありったけ」の戦力です。
ところがその戦闘機も、途中でエンジン不調となり、25機が途中で引き返しました。
結果、護衛が30機となったのです。
上空を飛行中の一式陸攻の機体の中から、下に吊るされている桜花に飛んで乗り移ったのです。
飛行中の機体に吊るされた桜花は、それこそ上下左右に激しく揺れ動いています。
その揺れ動く小さな桜花の小さな狭いコクピットに、パイロットは上から飛び乗るのです。
上空何千メートルという航空です。
そこに、パラシュートも付けずに、飛び降りる。一歩間違えば、そのまま転落します。
転落すれば死あるのみです。
ようやく桜花に乗り込むと、一式陸攻は、桜花を機体から切り離します。切り離された桜花は、その瞬間、数十メートル、猛烈なスピードで落下する。
落下しながら、桜花はエンジンに点火します。
それは恐怖の瞬間です。この時点で意識を失ったら、それも即、死亡を意味します。
そしてまっすぐに目標に向かって飛ぶ。
しかし、翼の小さな桜花は、低速では着陸しません。
猛スピードです。
きんたさんのいわれる
野中五郎少佐、
調べましたぁ、また勉強しました、
凄い将校さんですね、
画像は
一枚目 野中五郎少佐
2枚目 特攻機「桜花」
3枚目 一式陸攻が桜花を 抱いている、