ソロモン諸島上空を飛行する零戦二二型
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飛行機の分類の中に敵の飛行機を落とすことを専門にする飛行機(最初は攻撃機という呼び名から戦闘機という呼び名に移り変わりました)が生まれて以降、どこの国でもプロペラに邪魔されず胴体前面から心置きなく射撃出来る戦闘機を望んでいました。
その万国共通の願いを反映してプロペラを胴体後部に設けた戦闘機やエンジンのプロペラ軸の中を中空にしてその中から機銃を発射するモーターカノン式液冷エンジンを搭載する戦闘機なども造られ実戦使用されましたが、その全てが成功作になったとはいえませんでした。
ダイムラーベンツ製液冷エンジンのライセンス生産版国産液冷エンジンでさえ手を焼いていた日本ではモーターカノン式液冷エンジンは技術的にも手におえないとして正式採用機には導入出来ませんでした。
日本では太平洋戦争末期に海軍航空技術廠と九州飛行機が局地戦闘機「震電」というエンテ型飛行機(零戦のような在来戦闘機が前後逆になったような鴨型飛行機)を開発しテストをしていました。
この機体はプロペラとエンジンが胴体後部にあり後退角の付いた主翼が後部にあり小さな水平尾翼が機首にあるという現代のジェット戦闘機のような機体配置をした戦闘機でした。
したがって機首に搭載した機銃の発射には邪魔になるようなプロペラの存在自体がなく、しかも30mm機銃を4門も搭載するという強力なものでした。
このような機体だったため武装も強力でスピードも出せるだろうということで期待されていました。
しかし、終戦となったため時間切れでした。
震電は現存しており現在アメリカが戦利品として本国に持ち帰り分解した状態で倉庫に保管しています。
参考資料を貼りますね。
・終戦時進駐して来たアメリカ軍に接収される震電
・現在もアメリカのスミソニアン航空宇宙博物館の倉庫に分解保管されている震電
・十八試局地戦闘機「震電」の平面図
です。 -
ご覧になって判る通り、ドイツのホルテンといい日本の震電といい、こんな風にアメリカはいろいろな国の当時の最新技術を手に入れアメリカ本国へ持ち帰り、自国の兵器の技術開発に取り込んでいるのが現実でした。
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ゲゲゲっ
プロペラが 後ろに
初めて 知りました、
「震電」?
当時の日本は、すごいなぁ、
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今、ドイツ対ブラジル
のサッカーやってます、
ドイツの選手で ロングヘアーの方は、いませんね
第二次大戦、ドイツ軍の制服SS親衛隊を着れば
ピッタリの方ばかり、特にドイツのコーチは
まさに 親衛隊の顔
現在
ブラジル-0
ドイツー4
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このような形式の試験機はアメリカ、イギリス、イタリアでもそれぞれに造られてテストされていました。
しかし、いずれの機体も試験機留まりで実用機としては不適合とみなされてそれ以上の発展はありませんでした。
これらの中でも日本の震電が一番実用機には近かったという話もありますが、震電自体は終戦間際のテストということもあり主脚を出したままでの飛行で約300km/h程度のスピードしか出せていません。
搭載していたエンジンは2000馬力級の三菱製ハ43(零戦の後継機「烈風」は中島製の誉(ハ45)エンジンから三菱製ハ43に交換後に海軍の要求性能値を概ね達成しました)
大馬力エンジン特有の癖の影響で右に傾いた状態での飛行だったといいます。
最初の初飛行の際には離陸の時に角度を取りすぎたせいなのか、プロペラの先端が地面を叩いてしまい曲がってしまい失敗に終わりました。
それを補修して対策として二枚の垂直尾翼の下部に小さな車輪を付加して初飛行を行いました。
その様子も含め撮影されていた動画を参考資料として貼りますね。
太平洋戦争当時の日本側撮影のフィルムですから白黒だし見辛いですが他には無い貴重な記録映像です。
サッカーはドイツのキーパーの場合たとえボールをキャッチ出来なくっても弾き返してでもゴールには入れさせないという意気込みが実際の行動に表れていることが多く文字通りの死守であり守護神たる行動だと思います。
日本のチームにもそのような行動が取れるキーパーが欲しいところだと痛感します。
日本の場合は見ていた限りではそこまでの行動は取らずに「あぁ〜入れられたぁ」で終わっているケースばかりでした。
やはり攻撃力だけを磨いても防御力にも力をさいておかないと安定した強さは確保出来ませんね。
攻撃力一点張りだとたまたま運が良い時だけしか勝つことは出来ませんから。 -
震電 のムービー
素晴らしい
2分半のロングムービー
見ましたよ、
前から見るとジェット戦闘機に見えますね、大戦末期のドイツのMEジェット戦闘機みたいですね、
上記のムービーで最初のテスト飛行で
浮上する時、後部プロペラが地面に接触し
失敗、
昭和20年に成功で
間に合わなかったみたいですね、
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世界各国で似たような軍用機は造られていましたが、中でも日本の震電に近い形態をした軍用機の写真を参考のために貼りますね。
・イタリアのアンブロシーニS.S.4 1939年5月完成
・アメリカのカーチスXP-55アセンダー 1943年7月19日に初飛行
・牽引式双発の爆撃機ながら形態が似ている軍用機としてイギリスのマイルズ・リベルラM.39B 1943年半ばに初飛行
いずれも正式採用されることはなく終わっています。
これら諸外国製の同類機と見比べても日本の震電の完成度の高さが際立って見て取れると思います。
そして、震電の姿をいろいろな角度から見て行くと第二次大戦機というよりは現代ジェット戦闘機に限りなく近い形態をしています。
空冷式ピストンエンジンのプロペラ機ながら動力配置は後部だし、空気取り入れ口はコクピット斜め下後方の両サイドに開口しており、主翼は後退角の付いた層流翼の機体後部配置だし、水平尾翼は機首に配置されているし、垂直尾翼は二枚式だし、どれをとっても戦後数十年たった頃、1960年代に出て来たジェット戦闘機のような形態です。
残念なのは動力がジェットエンジンではなくプロペラ機だったことでしょうか。
震電はこのプロペラ機仕様で30mm機銃(1門あたり160発搭載)4門を機首に集中配置して最大速度750km/h、航続距離1500〜2000kmの性能を目指して開発していたそうです。
もしも、終戦がもっと後になっていたとしても開発は尚難航したことは想像に難くありません。
なにせ今まで世界中の国々が主流派として生産したことのない新ジャンルの軍用機でしたから。 -
貴重な画像ありがとうございます、
なんか プロペラが後部って ピンときませんね、
そういえば、日本を爆撃した B-29は 主翼に
プロペラでしたね、 -
元々、これまでの戦闘機の形態とはまるで異なる震電を開発するきっかけとなったのはアメリカ軍の長距離四発重爆撃機ボーイングB29スーパーフォートレス(超空の要塞)の存在でした。
同じく同盟国だったドイツではアメリカ軍の長距離四発重爆撃機B17フライングフォートレス(空の要塞)によるドイツ本土爆撃に苦しめられており、ドイツ軍はメッサーシュミットMe262A(ジェット戦闘機)やMe163B(ロケット戦闘機)を実戦投入して対処していました。
日本は戦争になり連絡手段が極めて限られるようになった同盟国ドイツから天然資源、鉱物資源と引き換えにドイツの優れた科学技術(ジェット戦闘機やロケット戦闘機とそれらのエンジン技術)を輸入しようと試みましたが、輸送にあたった潜水艦が連合軍の攻撃で沈められドイツからの技術情報はほんの一部しか手に入りませんでした。
そのほんの一部の技術情報を元にしてほとんど自前で開発したのが三菱のロケット戦闘機「秋水」でした。
ロケット戦闘機というのはこれまた当時でも現在であっても変わり種中の変わり種的な戦闘機だったため失敗する可能性も考慮されていて、失敗した時のその保険として計画されたのが震電でした。
ということで震電は日本本土に来襲するアメリカ軍のB29を撃墜することを主任務として与えられた戦闘機でした。
したがって20mm機銃弾よりも更に弾が大きく重い30mm機銃を4門も機首に集中配置していたのはメインの敵が戦闘機よりも遥かに大きな標的であるアメリカ軍の四発重爆撃機だったからです。
標的である敵が大きく、急機動などをほとんど行えない四発重爆撃機なら命中させ易く、当たれば一発で撃墜確実だったからでした。
B29の場合は最大速度は530km/h程度と零戦などとあまりかわらない速度でしたが、問題点はそれを発揮していたのが高度10000m以上の高空という点にありました。
ここまで高い空まで来ると空気が薄くなり零戦などの従来機では飛んでいるのがやっとの状態であり530km/hの速度で追いかけるなんて無理な相談だったのでした。
参考資料写真を貼りますね。
・現在も三菱で屋内展示されているロケット戦闘機「秋水」
・秋水のベースとなったドイツのメッサーシュミットMe163Bコメート(英語ならコメット、日本語なら彗星)ロケット戦闘機
です。 -
ロケット戦闘機「秋水」
初めて知りました、
現在のステルス戦闘機のように、主翼が幅広いですね、主翼の日の丸が 心を熱くします、
ロケット戦闘機と
ジェット戦闘機、とは
どうちがうのですか?
何回も質問してすみません。
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用途:戦闘機
分類:艦上戦闘機
設計者:堀越二郎
製造者:三菱重工業
運用者: 大日本帝国(日本海軍)
初飛行:1939年(昭和14年)4月
生産数:10,430機
運用開始:1940年(昭和15年)7月
退役:1945年(昭和20年)8月