ソロモン諸島上空を飛行する零戦二二型
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日本軍の戦闘機パイロット用フライトジャケットというのは正式採用品自体がなかったようです。
正式採用品としてあったのは陸軍も海軍も布製のツナギと上下別々にしたセパレートタイプ。
夏用と冬用があり綿混のギャバジン生地(絢織り)、ウール混のギャバジン生地(絢織り)の裏に兎毛皮や犬毛皮を施したものなどがあり、それぞれにいくつかのタイプが存在しました。
それぞれ第○種航空衣袴という名前が付けられていました。
海軍より陸軍の方が早くにセパレートタイプの導入を行い、海軍は冬用では終始ツナギで終わったようです。
当時の日本の陸軍と海軍では同じようなものを指す時でも様々な違いが多かったようです。
例えば、パイロットや偵察要員や爆撃要員を指す呼び名は陸軍では上空勤務者、海軍では搭乗員でした。
パイロットを指す呼び名も陸軍では操縦者、海軍では操縦員といった具合でした。
戦闘機搭載の20mm機関銃でも陸軍では20mm機関砲、海軍では20mm機銃でした。
極極希にアメリカ軍のようなフライトジャケットを着ている日本軍パイロットが当時の写真に写っていることがありますが、それは個人で購入した私物です。
日本軍の場合、士官以上の位になるとそういった装備品は自分で買い揃えることとなっていました。
詳しい詳細までは判りませんが、日本の軍隊内部でも下っ端の兵と士官以上では様々な待遇も違い支給される給料にも天と地ほどの違いがあったのだと思います。
士官学校卒と兵学校卒では戦闘機パイロットとしての腕が上でも昇進のスピードが違い、腕は上でも下手くそパイロットの下に就き部下にならなくてはならない。
という海軍内部の捩曲がった状態を零戦のエースパイロット坂井三郎氏が言っていたのを思い出します。 -
坂井三郎と言えば
硫黄島、ラバウル、ソロモン諸島のガダルカナルの撃墜王ですね、
まさに大空のサムライ、
元零戦パイロット一人
本田稔 氏 によれば真珠湾のあとに、生き残っても、ガダルカナル戦で戦死したパイロットが、多いそうです
戦死と言うよりも
帰りの燃料切れ、
航路が分からなくなり
スコールや嵐巻き込まれ海で亡くなった方が絶対多いと本に本田稔氏が言ってました、
3時間飛んで戦闘して
また3時間かかって帰る
車で考えたら、7時間乗ると同じようなもので
戦闘機の鉄板の中の狭いところ
恐ろしい 振動と爆音の中しかも高度 300メートルを飛んでいき、
かなりの寒さ、
めちゃくちゃ過酷な中でいつ敵がやって来るかわからないと警戒しながら、
また次の日も 行けと言われる、
本田稔氏は「私は、いつもドライバーを胸ポケットに入れてました」と
帰りに 寝てしまうから
そのドライバーで足を刺すそうで、
それでも寝るから
ドライバーを傷口に、グリグリとねじ込むそうで
それでやっと目がさめるそうです。
実際あと1時間で帰れるかなぁと思っていたら、横にいたはずの戦闘機が高度を下げて、海に墜ちていくのを、何度も見たそうです、
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・中国大陸上空を飛ぶ海軍第12航空隊の零戦一一型
・1940年9月13日、中国大陸の重慶上空で初陣を飾った後、漢口基地に戻った零戦搭乗員たちと第12航空隊幹部の記念写真
を貼ります。
中国軍戦闘機部隊は日本軍の戦闘機部隊と空中戦をするのを避けて空中退避を繰り返しており(日本軍戦闘機が居ないと日本軍爆撃機を攻撃して来るくせに日本軍戦闘機が現れると直ぐに逃げていた)零戦部隊は出撃していたものの三回も中国軍戦闘機部隊に逃げられていました。
そして、四回目にしてやっと中国軍戦闘機部隊との会敵を果たしました。
日本軍部隊が攻撃終了後に帰ると見せかけ、長い航続距離能力を持つ零戦部隊は再び重慶上空へ引き返し、ちょうど安心しきって帰って来た中国軍戦闘機部隊を捉えて空中戦が始まりました。
中国軍戦闘機部隊はもちろん国産戦闘機などは持たずソ連製戦闘機ポリカルポフI-15とI-16の混成戦闘機部隊合計27機、対する日本軍戦闘機部隊は零戦一一型合計13機、僅か30分あまりで中国軍戦闘機部隊は全機撃墜され日本軍戦闘機部隊は4機被弾したのみで撃墜されたものはゼロという圧勝でした。
この時の話で、良く当たり難いといわれる20mm機銃弾が敵戦闘機に命中した場合が凄かったといいます。
命中したら敵戦闘機の機体自体が吹き飛んだといわれています。
20mm機銃弾は弾自体が重く発射する戦闘機が空中戦で小回りを利かせ飛行しながら発射するため重力や重力加速度(G)の影響を強く受けるため弾自体が真っ直ぐは飛ばず放物線を描いて飛んで行くため狙った敵戦闘機に命中させるには熟練したコツが必要だったといわれています。
零戦の歴戦のエースパイロットだった坂井三郎氏によると20mm機銃弾を敵戦闘機に命中させる場合は先ず照準器のレチクルから敵戦闘機の姿がはみ出すくらいに接近すること、そして発射の際には絶妙のタイミングで一瞬だけ機首を引き起こすこと、こうしないと普通に射撃していては絶対に命中しない。
そしてモタモタしているうちに装備弾数が少ない20mm機銃弾(初期の型だと1門あたり60発しか装備出来ませんでした。)は直ぐに撃ち尽くしていまう。
といわれていました。 -
零戦も改良型が造られる度に搭載する機銃の種類も様々何度となく変更されました。
そして実際に零戦を操縦して命をかけて戦うパイロットたちを悩ませたのが搭載する機銃は数種類なのにそれに使う照準器は1種類だけしか搭載されていないということでした。
弾の大きさや重さが違うと飛んで行く弾道特性はまるで別物になります。
どれか一つに射撃精度を合わせるとその他の種類の弾は射撃精度が曖昧になるからでした。
その点は各戦闘機の装備機銃を直進弾道性に優れた12.7mm機銃に統一していたアメリカ軍は賢かったし羨ましかったと坂井三郎氏は語っていました。
ただアメリカ軍の12.7mm機銃弾(ブローニングだったかな?)には炸裂するタイプの弾がなかったのが一つだけ問題点だったという話があります。 -
ブローニングの12.7mm機銃はいろいろな国で改良版などが造られていたそうで日本でも陸軍と海軍が別々にですが、ブローニングの12.7mm機銃を参考にした機銃を造り使用していました。
弾の大きさは微妙に異なり12.3mmとか13mmとかでした。
しかし、特筆すべき点は世界で唯一日本の弾だけは炸裂弾が造られていた点でした。
初期の頃は暴発や不発などがありましたが、陸海軍共同で改良に取り組み信頼性は向上していました。
この機銃を統一装備すれば良かったのにと惜しまれます。 -
昭和16年5月26日、黄河中流域の運城(ユンチョン)を出発し、西方約400kmに位置する中国軍根拠地南鄭(ナンチェン)を攻撃するため編隊飛行する海軍第12航空隊の零戦一一型(零式一号艦戦一型)。
胴体に2本青帯の3-141号機は分隊長鈴木実大尉乗機、3-136号機は中仮屋国盛三飛曹乗機
の当時の写真をカラー化したものを貼ります。
私のお気に入りの一枚です。
中国大陸に進出していた帝國海軍第12航空隊、通称12空の零戦の塗装は全体は現用飴色そして胴体の国籍マークのあたりから後ろは明るい灰白色で塗装されていたのが特徴です。
良ーく見ると色の微妙な違いが判ります。
白黒写真でも良ーく見ると色のトーンの違いが判ります。 -
↑この頃の零戦は最初の量産型であるA6M2a一一型で、その後太平洋戦争初期に空母機動部隊や陸上基地から運用された零戦二一型A6M2bは外見はほとんど同じでしたが、機体全面が明灰白色一色で塗装されていてその点を見れば記録写真も区分けがつきます。
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0さん、大変勉強になりました、
百田尚樹(永遠の0の著者) 氏 が いってます、
「なぜ零戦は日本人の魂を揺さぶるのか?、」
「名人の名人による名人の為の戦闘機」
0さんの言う、零戦一一型、〜二ー型番に積んだ当時の20㍉機銃
従来は7、7㍉機銃が主力だったとか、
山本五十六中将が20㍉こだわり、推進、開発させたみたいですね
連合軍は
12、7㍉
調べました ↓↓
九九式20㍉一号機銃二型 全長 1331㍉
重量 23キログラム
1秒間に7発
最大射程距離2000メートル、
連合軍の12、7㍉ブローニング機銃
全長1645
重量38、7キログラム
1秒間に1発0程度
最大射程距離1000メートル、
不足を実感したワイルドキャット初期型は4門を6門に増大したとか、
まぁ機銃に関しては双方一長一短ありますが、
零戦は炸裂弾も発射できた、曳光弾(弾道がわかる)も発射、
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零戦の搭載武装(機銃)は各型によりさまざま、7.7mm機銃、20mm機銃(銃身の短いタイプと長いタイプ有り、そしてドラム式弾倉とベルト式弾倉が有り)、13mm機銃でした。
参考資料を貼ります。
・昨年再来日し所沢で公開されたアメリカのプレーンズオブフェイム博物館の零戦五二型甲。
・零戦五二型甲と同時に展示された九九式二号二○粍固定機銃と三式十三粍固定機銃、零戦五二型乙と零戦五二型丙に搭載されていました。
・零戦五二型の甲乙丙の三タイプの搭載機銃の違いと装備位置と占有範囲を示した図。
零戦と同時期開発の陸軍の中島一式戦闘機「隼」が装備したホ103(12.7mm機銃)のマ弾(12.7mmの炸裂弾)によって攻撃され撃墜されたアメリカ軍機のパイロットから20mm機関砲弾でやられた20mm機関砲弾でやられたという報告が複数あがっており、それを考えると零戦も武装を13mm機銃に統一装備し海軍でも使われていた13mm(正確には13.2mm)機銃弾の炸裂弾を使えば射撃もしやすく装備弾数もたくさん搭載出来たのにと惜しまれます。
そういう細かな部分だけど戦いに勝つためには実は重要な部分に目を向ける軍の上層部は居なかったのでしょうね。
というか最前線で命を賭けて零戦で戦っていた坂井三郎氏たち零戦パイロットたちが望んでいたのにその要望を叶えてやれなかったのはやはり軍の上層部の責任でしょうね。
そこには零戦パイロットたちの命がかかった実際の実戦での使い勝手よりも、装備でも戦果でも何でもド派手なことだけを望みたがる軍の上層部の体質が見え隠れします。
いくらド派手に見せることが出来ても撃墜されればおしまいだし、戦死すればおしまいだし、負ければおしまいなのに、です。
軍の上層部の人間の頭の中に自分は最前線には行かないから…という考えが頭にあったのならそれは酷い話でしょうね。 -
海外駐在武官なども務め後に帝國海軍の連合艦隊司令長官になった山本五十六氏が当時としては大口径に分類された20mm機関砲を零戦に装備するようにと強く推したのは世界情勢や海外列強国のことを良く知っていたことによる先見性の高さだと思います。
しかし、命中すれば効果絶大でも実戦使用して判った悪い部分は戦場からの声に耳を傾け改善すべきだったと思います。
改良で改善出来ないなら20mm機銃をやめて13mm機銃を統一装備することも含めて再度考え直すべきだったと思います。
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用途:戦闘機
分類:艦上戦闘機
設計者:堀越二郎
製造者:三菱重工業
運用者: 大日本帝国(日本海軍)
初飛行:1939年(昭和14年)4月
生産数:10,430機
運用開始:1940年(昭和15年)7月
退役:1945年(昭和20年)8月