ソロモン諸島上空を飛行する零戦二二型
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権兵衛さん、ドックファイト知りませんでした、
調べました↓
当時の、栄二一型発動機で飛行する、唯一無二の零戦五二型
米軍が民間に放出した戦時下の捕獲機を完全復元した、プレーンズオブフェイム航空博物館
大戦末期に米軍がサイパン島で捕獲、
非情にオリジナルに近い状態とはいえ、戦後30年近く放置されていたので8本の主柱 と 超々ジュラルミン、電送系、だけみたいで当時の栄二一型は発動機はほぼそのまま、
その鼓動は、70年以上を経ても、今なお健在、素晴らしい
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上記 零戦五二型コックピット
操縦席の造作はほぼオリジナルに忠実、
フットバーは英シーフューリー戦闘機の流用品
とあります、
漢字の数字が たまりませんね、
二枚目の画像は防弾鋼鈑非装備のため 後方視界は良好 背もたれは肉抜き孔座席は大柄な米パイロットに合わせて約15㎝後退できるようにしてある
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ノースアメリカンP-51Dムスタングが好きだという人は多く世界的にも第二次大戦の最優秀戦闘機といわれることが多い。
しかしP-51Dムスタングと対戦した敵国の戦闘機パイロットや本人は希望していないのに命令でP-51Dムスタングに無理矢理乗る羽目になった戦闘機パイロットたちの感想(作られた声ではない真実の声)を知ると話はかなり違って来る。
P-47サンダーボルトなどのP-51Dムスタング以外の戦闘機に比べると割と安価な費用でいろいろな用途をそつなくこなし最高速度が早く一応航続距離も長くすることが出来た点を評価したとするならば最優秀戦闘機の評価はピッタリと当て嵌まるということらしい。
つまりP-51Dムスタングという戦闘機は使う側の者(第一線で戦うパイロットたち)というよりは保有する側(軍、ひいては国)にとっての最優秀戦闘機であったというのが真実のようだ。
そこに輪をかけて民間に払い下げられた機体の数が多かったりエアレーサーに改造されて使われたりして人気が更に強化されたというのが正しいだろう。
意外にもP-51Dムスタングと対戦したドイツ軍でも日本軍でもP-51Dムスタングが特に強く優秀だったと語る戦闘機パイロットはほぼいない。
P-47サンダーボルトやその他の戦闘機の名を挙げて苦労したことを語る者が大半だという。
そして更に驚くことにアメリカ軍戦闘機パイロットはP-51Dムスタングに乗るよりは軒並みP-47サンダーボルトに乗りたがっていたらしい。
理由はいろいろなことをそつなくこなし最高速度は速く航続距離も長いが、飛行安定性が悪く挙動不審な動きをする癖があり機体強度が弱く後部燃料タンクに重大な欠点があり操縦の仕方を誤ると空中分解や操縦不能になる危険性をいつもはらんでおり、操縦上いろいろな制約が多くあった。
そういう理由でどの戦闘機パイロットたちも自分の命を預けるには不安感が強かったためだ。
地上攻撃機として使われることになったP-51(A-36アパッチ)が誕生したのは1940年と零戦より僅かに1年後なだけだがイギリスからの様々なアドバイスや技術協力により生まれ変わったP-51Dムスタングが誕生したのは第二次大戦も終わりに近付いた1944年になってからです。
この頃にはドイツ軍も日本軍もかなり軍事力が衰えていたためP-51Dムスタングが大量に撃墜される悲劇が避けられただけなのです。対戦する敵戦闘機がほとんどいなくなっていたためP-51Dムスタングは駅や民家、一般市民などに対して機銃掃射をしてまわり戦争犯罪といわれても言い逃れ出来ないような悪行の限りを尽くしていました。
このようにして機銃掃射された側の生き証人が昨年末ドキュメンタリー番組に出演されていました。
これが最優秀戦闘機と評価された戦闘機の正体でした。
画像は19年前、茨城県竜ヶ崎飛行場から飛び立ったプレーンズオブフェイム博物館の零戦五二型とP-51Dムスタングのデモンストレーション飛行の様子です。
低空で急旋回、2機共お互いにこのまま相手側に旋回して接近すれば飛行性能の違いから(零戦よりP-51Dムスタングの方が大回りになる)ションベン弾になる(遠心力により旋回円の外側へ放物線を描く)20mm機関弾であってもP-51Dムスタングがバラバラに撃墜されそうなポジションです。
でもこれはあくまでもデモンストレーション飛行です。
もう一枚の画像は同じくP-51Dムスタングの後方に付いた零戦五二型です。 -
これはおまけで貼ります。零戦が搭載していた武装の一つ
・九九式二号20粍機銃の作動の様子を示したGIFアニメーションファイル
・九九式二号20粍機銃各種使用弾と九九式一号20粍機銃弾の画像
です。(参考までに) -
大戦中の最優秀機と評価されるムスタングP51も決してパーフェクトな機体では、無かった事が確かやな。
大航続距離を求められた為に燃料を過大に搭載し、これが起因となり落下タンクを装着した場合は機体の挙動が不安定になり常にトリムタブを調整しないと直進飛行が困難な事や、
エンジンの馬力に対し機体重量が重く、低高度域では零戦や特にメタノール噴射装置付きの隼3型などの機動に追従できない点などが挙げられるわな。
エンジンもロールスロイス製マーリンタイプをアメリカのパッカード社でライセンス生産されたけど当初はフォード社での生産が打診されたけど同社の技術陣が量産困難と判定した精密な構造やってんな。
パッカード製のマーリンエンジンは暫し原因不明のエンジンストールを発生し、このため硫黄島から日本本土への長距離飛行では撃墜した日本機よりもエンジントラブルが原因で未帰還となった機体の方が多いとも言われているんやな。
まぁ陸軍戦闘機隊の黒江少佐は捕獲したムスタングを自分の愛機のように乗っていたけど、その高速性と機体の装備や無線及び航法装置の充実ぶりに高い評価をしていたので高性能な機体であった事は確かやと思うな。 -
権兵衛さんこんにちは。
m(_ _)m
これは今から19年前にプレーンズオブフェイム博物館のP-51Dムスタングと零戦五二型が茨城県竜ヶ崎で飛行した際の映像のワンシーンです。
同時に離陸を開始、この映像の最後のあたりの両機の高度差には驚きでした。
この軽快さだけを指して高性能というのは言い過ぎかも知れませんが、離陸性能だけを見てもこれだけの性能差があるのは動かぬ事実ということでしょうね。
我々日本人の先人たちの技術的功績を見た思いがした映像です。
同時に離陸スタートして、ものの数秒でこの高度差、機体サイズから考えると既に数十メートルは高度差が出来ています。
零戦の舞い上がり易い機体性能以外にも低い着陸速度性能(低速でもバランスを崩さず失速せずにコントロール出来る操縦性能)から考えると極端な話このまま旋回して直ぐにでもP-51Dムスタングを機銃掃射出来そうな感じです。
この映像を見たことない人にとっては驚きだろうと思います。
私も初めて目にした時は驚きでした。
血の滲むような軽量化と捩り下げなどの匠の技の効果なのでしょうか。
ちなみに零戦で使われた沈頭鋲や捩り下げの技術は戦後のジェット機時代になってからは超音速旅客機コンコルドにも取り入れられており、もちろん最新の現代ジェット戦闘機にももう常識であると言わんばかりに使われているようです。 -
(戦闘機好きの人の間では既に良く知られていることですが)ノースアメリカンP-51ムスタングという名前を聞くとアメリカの代表選手的な戦闘機だと捉えられがちですが設計したのはアメリカに移住したエドガー・シュミュード(対ドイツ戦のさなかということでドイツ的なイメージを払拭したかったのでしょう本当はエドガー・シュミットです)というドイツ人でした。
アメリカに移住する前はドイツのメッサーシュミット社などで戦闘機設計に携わっていた人物でした。
そういう経緯で設計され、アメリカからの援英機の購入を増やしたいと考えていたイギリスからのアドバイスと技術協力ならびにロールスロイスのマーリンエンジンを得たことにより元々取り入れられていた急機動をよく行う戦闘機には不向きながら高速は出し易い層流翼の効果も合間って高い最高速度が出せる戦闘機となりました。
水滴型風防に変更したことで飛行安定性が更に不安定となったため垂直尾翼の前方にドーサルフィンを取り付けて安定性を補いました。
航続距離を長くするため大量の燃料を搭載出来るように作られていましたが後部燃料タンクの燃料が減っていない状態では急な機動は一切行えない、無理して行えば墜落の危険性があるという残念な戦闘機でもありました。
同じような型式で同じような姿をしていた日本陸軍三式戦闘機飛燕でも同様の現象がありましたが日本の場合は後部燃料タンクを使わないようにして取り外していました。
割り切り方の違いでしょうね。
総合して考えるとP-51Dムスタングとはスピード競争機としてなら向いているが戦闘機としては不向きな機体なのに無理矢理戦闘機として大量使用された飛行機であるといえます。
そして運よく大量に撃墜されることがなかったために最優秀戦闘機だなどという称号を頂いてしまった戦闘機だと思います。
それは乗っていたパイロットたちや敵のパイロットたちの感想が物語っています。
あまり良い評判がない。 -
龍ケ崎の航空ショーは、ワイも行ったけど5月やのに薄ら寒い日やったな。
印象に残ってるのは、良好な零戦の運動性で水平飛行から垂直上昇する機動にはシビレたがな。
一通りの飛行マニューバが終了して観客から質問する時間が設けられていたけど、その中で当時、零戦の整備員やった人の質問で「戦時中の零戦のエンジン音と比較して静かなようですが。」とあったけどその回答として、エンジンを保護する為に全開の六割しかパワーを使ってないとの事やたんやな。
実際に零戦52型から推力排気管になってバリバリと言う排気音がしたと搭乗員の手記に書かれているのに龍ケ崎で垣間見た零戦のそれは割と低めのように思えたんやな。
多分、全開で飛行した更に鋭い運動性を披露してくれると思うで。
ほんでやな最強のレシプロ戦闘機は制空性能のみを特化したグラマン社のベアキャットやろな。
一般的にヘルキャットは零戦を軽くノックアウトしたように思われているけどその実相は、熟練搭乗員が操縦する零戦は、かなり手強い存在感があったようで歴戦搭乗員達が数多いたラバウルでは、カタログデータでは零戦より遥かに優れているヘルキャットやコルセア、P38などの米戦闘機でも低中高度でのドッグファイトで絡まれて苦戦する様が米軍パイロットの手記からでも伺える事ができるねんな。
これは戦闘機は速度性能だけでは、絶対的なアドバンテージを得るのは困難な事を現してるんやな。 グラマン社にもたらされた戦闘機パイロットよりの戦訓がベアキャットの設計に反映され、完成された機体は空中戦で絶対的な優位を保つレシプロ最強の戦闘機やったと思うねんな。
ムスタングとの模擬空中でも圧倒的な高性能ぶりを発揮したそうやがな。
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どの時代でも、どの戦争でも、同じ年に完成した戦闘機同士が戦うかといえばそうではないケースが実際の戦闘では往々にして多い。
理由はその時代時代の歴史や国々の御家事情に大きく左右されています。
それはそれとしてアンフェアでない正常対応な対比で考えると日本の海軍の艦上戦闘機とアメリカの海軍の艦上戦闘機を当て嵌めた場合はそれぞれ実機が完成し飛べるようになったのは
零戦が1939年
F4Fが1939年
紫電改が1942年
F6Fが1942年
烈風が1944年
F8Fが1944年
でした。
日本とアメリカの間で実際に行われた戦闘機同士の戦闘のほとんどは1939年生まれの歳老いた零戦と1942年生まれの若いF6Fヘルキャットというものでした。
戦争の時代にあって、いかにアメリカが資源も技術も持ち裕福であったか、一方日本がいかに貧しく貧しいながらも大国に食い下がったかが良く判る図式です。 -
アメリカとの戦争の結果からいえる事実は零戦とF4Fワイルドキャットとの戦いでは日本の圧勝でした。
しかしその後、日本も紫電改、烈風と零戦の後継機となる戦闘機を何とか開発するところまでは出来たのですが戦いに使えるだけの状態まで数を揃えることに失敗したためアメリカの新型戦闘機と零戦が戦い続けなければならない捩れ現象が発生してしまいました。
要は初戦の戦争に圧勝していた当時の日本人も素晴らしかったが問題点は戦争継続能力が足りずアメリカ合衆国と戦争すること自体に無理があり過ぎたということでしょう。
その先どう収めるかという構想もハッキリしない戦争に踏み切ってはいけないということでしょう。
国の舵取りをする政治家の皆さんはシッカリと頭に焼き付けておかなくてはならない事柄です。
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用途:戦闘機
分類:艦上戦闘機
設計者:堀越二郎
製造者:三菱重工業
運用者: 大日本帝国(日本海軍)
初飛行:1939年(昭和14年)4月
生産数:10,430機
運用開始:1940年(昭和15年)7月
退役:1945年(昭和20年)8月