ソロモン諸島上空を飛行する零戦二二型
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↑ハンネを0と入れるのを忘れていました。
ごめんなさい。m(_ _)m -
誉型エンジンは、栄型エンジンをベースにクランクケースの大きさをそのままで、14気筒から18気筒化した為にエンジンの各部品の配置に多少無理が生じ整備性に難点があり、これが稼働率低下の一因でもあった訳やな。
燃料に関しては開発当時、海軍は100オクタン価のガソリン供給を約束していた為に設計時にその事を前提に開発したけど
諸事情により95オクタン価の燃料しか供給、出来なくなり、機械的にオクタン価を上げる為、水メタノール噴射装置により燃料問題に対応したんやな。
出力アップには加給器のブースト圧を上げる必要があり、これにより燃焼室が高温になりプラグの点火前に異常爆発するデトネーション発生を抑制する為により耐爆性の強い高オクタン価の燃焼が不可欠となる訳やな。
巷の燃焼事情の解説では日本は戦争後半にガソリンの質が低下していった事になってるけど実相は年を追ってオクタン価が向上していき全ての誉型エンジンには95オクタン価の燃料が供給されていたんやな。但し南方からの原油の供給が絶望的になった戦争後半には燃料節約の為に練習機等には低オクタン価燃料を用い、実用機の高オクタン価燃料の温存に努めていたんやな。
必要な燃料は在庫していたけど供給の望みが無い為に小出しに使っていた訳や。 但し航空燃料より遥かに消費量の多い艦船用燃料は枯渇していたけど、日本は艦船が全滅に近い状態であったからまぁ問題にはならんかったんやな。 -
ほんでや燃料のオクタン価問題は解決方向にあった誉型エンジンの不具合の原因を追究してみると、まずマニホールドに不具合が生じ、これが表面化されないまま用いられた為に燃圧低下の要因となった点とキャブレター方式では、14気筒エンジンへの燃料供給が 限界になりつつあったのに18気筒化した誉型では、更に各シリンダーへの正常な燃料供給に問題が発生化した為、対策として低圧力の燃料噴射装置を開発し、惜しむらくは実用化寸前に終戦となって
その真価を発揮できなかった事やな。
その他では大動員の為、機体やエンジン製造に不可欠な熟練工や経験者が次々と徴兵に取られ、難易度の高いエンジン生産に難点が発生した事で、燃料問題より深刻な状態となったけど、軍の大号令の前にその声は伝わる事は無かったんや。
栄型エンジンより全てが高品質化で額面馬力を達成する誉型エンジンやのに実際は、より悪い条件下で実用化された事も要因のひとつやな。後は点火系統のマグネットやプラグコード、プラグ自体もアメリカ製より品質が劣る事も馬力低下の原因やな。
米軍に捕獲された日本機は米軍規格の高オクタン価燃料を始めとしプラグ及びプラグコード、エンジンオイル等で完全整備され、日本ではブーストを押さえ運用されていたエンジンが本来の性能を発揮したために日本側のデータより遥かに高い性能を記録したんやな。
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いよいよ、専門的用語がたくさん出てきました、
私には ちと難しいです、
しかしそのような状態で 敗戦になったわけですね
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まぁ一言でいうと戦前の日本の科学技術は高レベルの設計が出来たけど、材料や周辺技術がそれに追従する事が難しかったので額面通りの性能が発揮、出来んかったと言う事やな。 零戦の開発時は日本の航空技術は凄まじい勢いで発展している過程にあり、お手本になるアメリカの航空機技術を必死に学び取り、そこから更に高レベルなものへと発展さしたんやな。
機体に用いられた部材にも超々ジュラルミンと言うそれまでの米軍規格の航空機材料より格段に優れた強度のジュラルミンを住友金属の技術者が開発に成功し、それが零戦の軽量化に貢献したんやな。
エンジンもアメリカのプラット&ホイットニー製を参考に同時期のアメリカ製より先進的な構造と高品質な材料が使われ、アメリカ製を参考に劣化コピーならぬ進化コピーとも言うべき高いレベルやったんや。
また零戦の開発当時、航空機産業に従事する人は極めて優秀な人材で、日本人特有の職人肌とより高度な技術に挑む真摯な姿勢が零戦を誕生させた訳やな。
アメリカの技術を急速に吸収し、一時期ではあるが米軍の戦闘機より優れた性能を誇ったのが零戦の真の姿やな。
余談ながら初期の零戦にはアメリカ製の部品が使われた箇所もあり、機体の構造自体もアメリカの技術を吸収、発展させ更に高いレベルに昇華させたものやな。
燃料もアメリカ製の92オクタン価ガソリンがベストでエンジンオイルに至ってはテキサコ社製オイルを使用する旨が取り扱い説明文に記載されとったんやな。
終戦により零戦の全てが途絶したように思えるけど、実は当時、零戦の重要部品を開発したメーカーや下請け会社は平成の現在に至り未だに操業している所も多くあり、自分達が普段、使っている生活用品に零戦の技術的な系譜が脈々と受け継ぐがれているんやな。
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権兵衛さん、よくわかりました、レスを五回ほど繰返し読ませて頂きました、
昨日、NHKで『零戦〜搭乗員たちが見つめた太平洋戦争』があり、
零戦が米空母に体当りする場面、
↓↓ -
昨日の零戦の番組を見たけどオカンの兄弟が19歳で特攻隊員やった事と重なったがな。
戦闘機乗りになり零戦で大空を駆けるはずが練習機での特攻隊員となり、出撃前に終戦となり復員したけど、戦後は元特攻隊員に対する世間の風当たりは厳しいものがあったそやな。
終戦直後に熟練の搭乗員が「お前達も海軍の戦闘機パイロットなら一度は零戦に搭乗しておけ」と言われ歴戦搭乗員の操縦する複座の零戦に搭乗し、初めて対戦闘機の機動を体験したけれど物凄いGがかかり背骨が折れるかと恐くなり最後は鼻血が出たそうやな。
着陸後フラフラになり機体から降りた姿を同僚達にからかわれたそやけど、その同僚達も着陸後はフラフラになり嘔吐する者もいたそうで、
それでも搭乗希望者が後を絶たず予備学生の少尉達が当時、貴重品だったサントリーの角ビンを手に「願います」と言って搭乗飛行を願い出たそうや。
夕闇が迫るまで飛行は続き、エンジン全開飛行で加熱しパンパンパンと異音を発しカウリングを高温で真っ赤にしながら着艦要項通りの見事な三点着陸で定点接地し全員から拍手を持って迎えられたそや。
叔父に会う度にこの体験談をせがんだもんやけど、零戦には自分の琴線に触れる 言い知れぬ魅力があるねんがな。 -
日本人の期待を一身に背負い大東亜決戦機とまで言われた二千馬力級エンジン戦闘機疾風。
現存していて過去に飛行展示も行っているのに零戦に比べると公開されているカラー写真が非常に少ない疾風。
飛行展示のカラー動画に至っては探してはみたものの見付けることが出来ていません。
少ないながらも公開されていた疾風のカラー写真を厳選して貼ります。
どれも1973年入間基地でのもの。
前から気になっていることなのですが、出来るだけ大きな画像を提供すべく出来るだけ大きな画像を貼っているのに試験的に自分でダウンロードしてみると小さな画像にしかならないのです。
ダウンロードのやり方が良くないのでしょうか?
それともダウンロードする際には必ず小さな画像に変換されてしまうシステムになっているのでしょうか? -
ヘルシアさんが最初に貼られていた写真のカラー化版を貼ります。
ソロモン諸島上空を行く零戦二二型の編隊です。
零戦二二型はエンジンを栄二一型にして、主翼は零戦二一型と同じ折り畳み機構付きの翼の長さが長いタイプとして燃料タンクも容量を増やし、零戦本来の機動性重視指向に戻し航続距離の回復も狙った型で零戦各型の中では最もバランスの取れた最良の型だといわれています。
写真の零戦はアメリカ軍との航空撃滅戦という戦力の消耗戦に入った時期のものであるため酷使されていたこともあり、また赤道付近の灼熱の太陽光に曝される毎日だったこともあり各機とも塗装がかなり傷んでいました。
まさにこの時期は特にパイロットも戦闘機も消耗の激しい熾烈な消耗戦でした。 -
この零戦の勇姿は吉田一報道班員がラバウルからガダルカナルへの進攻時を撮影したもので、本来は一式陸攻の100メートル上空を飛行するのが編隊の定位置で、この時は写真撮影の為に同高度に下がって来たそやな。
搭乗員は一説によると中島少佐とも言われてるんやな。
ラバウルからカダルカナルの航路は晴天時は珊瑚礁や数多くの無人島が途上に点在し、視認で航法が可能やけど天候が悪化すると航法計算をしながら千キロの長駆を飛行して帰還しなければならぬ、数多くの機体が航法を誤って未帰還となりラバウルは搭乗員の墓場と呼ばれたんやな。
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用途:戦闘機
分類:艦上戦闘機
設計者:堀越二郎
製造者:三菱重工業
運用者: 大日本帝国(日本海軍)
初飛行:1939年(昭和14年)4月
生産数:10,430機
運用開始:1940年(昭和15年)7月
退役:1945年(昭和20年)8月