ソロモン諸島上空を飛行する零戦二二型
トータル:36001HIT
-
↑上記 は 携帯サイトの コピペです、
日本海軍の判断ミスがあったかもしれません、
亡くなった 英霊の方々 またミッドウェー海戦後に亡くなった日本人約300万人の方々(非武装民間人も含めて)
手を合わせて頭を下げざるをえません、 -
真横に向けて主砲を一斉射撃したらひっくり返るかどうかはわかりませんが映画などでよくある一斉射撃シーンは海上に浮かぶ艦船対艦船の対戦では実際にはほとんど行わないと思います。
行うとしたら角度を考慮した上での陸地に向けた地上攻撃シーンに限られると思います。
海上に浮かぶ艦船という限られた小さな目標に対しては実際には一斉射撃はあまり行わないというのは一斉射撃すると各主砲の発砲の爆風がお互いに悪影響を与え合い着弾位置にズレが生じるため、(主砲射撃の爆風がお互いの弾道に悪影響を与え合うのを防ぐために時間差発砲をさせるための装置が備えられていたはずです。)たくさん砲撃されたという恐怖感を敵に与えることは出来ますが命中しない弾が多数という結果となり得られるメリットは多数の砲弾による威嚇のみとなります。
おまけに檻に入れた小動物を甲板上に置いておき主砲の射撃をするとその際の爆風の圧力により死んでしまうという実験結果もあるので自艦の搭載機材や搭載機や搭載艇が壊れる危険性も十分ありました。
それを防ぐために大和級戦艦の場合は艦尾部分に工夫を凝らした作りを採用していました。
主砲射撃を行う際には特異な作りの艦尾部分に搭載機や搭載艇を収容してそこを爆風シェルターとして活用するように考えられていたほどでした。
大和級戦艦というのは世界的にみても戦艦建造時代の最後期に建造された艦であるためシンプル且つ様々な工夫を凝らしてあり良く出来た艦となっていました。おそらく光学測距装置が活用出来るような良い天候で戦艦同士で主砲の撃ち合いをしたらアメリカ、イギリスの戦艦でも装甲が厚く射程距離が長く威力の大きい46cm砲弾を持った大和級戦艦に勝てる艦は無かったであろうと思います。
日本が大艦巨砲主義に走ったきっかけは日清戦争を目前にした時期に日本より優勢な戦艦群を持ち日本への牽制をしていた中国海軍(当時の清国海軍)の脅威になんとかして対抗しようという切羽詰まった状況がありました。
しかし大和級戦艦という世界的にみても究極の大艦巨砲主義にまで辿り着いた日本でしたが実際の戦争で大艦巨砲主義の艦艇が大成功をおさめた事例は残念ながらありません。
どの戦争の時も勝敗を左右する働きを演じたのは他の兵器でした。
艦橋上から艦首方向を撮影した写真
・大和級戦艦の二番艦である武蔵。
・アメリカ海軍の戦艦ミズーリ。
・イギリス海軍のネルソン級戦艦。
を貼ります。 -
ヘルシアさんが書かれた内容それもその通り正しいと思います。
確かに心血を注いで研究開発し作り上げた大艦巨砲主義の艦艇を温存しよう温存しようという考えが軍の上層部の中に根強くあったのは事実です。
温存しておいた虎の子兵器(大艦巨砲主義の艦艇)で大国ロシアを破った日本海海戦の時のような華々しい戦闘で戦争の勝敗を決定着けようと夢見ていたのは確かです。
しかし軍用機でも軍艦でも戦闘車輛でも共通なこととして速度の遅い種類の仲間が一緒に行動している場合、遅いものに歩調を合わせるしかなく結果として戦闘部隊の機動能力を落としてしまうこととなります。
近代戦争というのはいろいろな機種の連携による作戦が必要不可欠です。
空母という軍艦は基本的には自艦の速力により合成風を作り出し艦載機の発艦を助けなければならない関係上、建造当初から高い速度性能を与えられているケースがほとんどでした。
戦艦という軍艦は元々は速度が遅くてもそれが普通と思われていた艦種であり空母と同等レベルの速度を持った高速戦艦は数的には少数派でした。
その高速戦艦に分類される戦艦たちはいずれの艦も巡洋戦艦と呼ばれる戦艦の装甲を薄くした分、高速度が出せるようになった艦でした。
速度の速い空母に随伴して護衛することは出来るが敵の戦艦と主砲の撃ち合いをした場合は命中弾を受けると非常に弱く直ぐに倒されてしまう程度の装甲しか持ち合わせていませんでした。
アメリカ海軍のアイオワ級戦艦ミズーリは速度が速く高速戦艦でしたが装甲面ではさほど強力ではなく、もしも大和級戦艦と直接主砲の撃ち合いをして被弾していたら非常に脆かったはずです。
実際にはアメリカ海軍の空母戦力が多数あり大和級戦艦と戦艦ミズーリが砲撃戦をするほどの距離に近付くことはありませんでした。以上のことも作戦計画に影響を与えた可能性は非常に高いです。
高速○○と呼ばれる軍艦を除いて考えると軍艦というものは基本的には駆逐艦や軽巡洋艦や重巡洋艦や空母はその任務遂行上の必要性から高速であり二十数ノットから三十ノット前後出せるのが普通でした。
それに比べ戦艦は二十数ノット前後が普通で三十ノットを超えるものは数的には少数派でした。
潜水艦は更に遅く水上でも十八ノット程度、水中では十ノット程度しか出せませんでした。
現在の潜水艦は水上と水中の速度が逆転し全般的に速度性能も向上し水中でも二十数ノットから三十数ノット出せるものまであります。 -
その各種軍艦の艦種による世界的な当時の常識を逆手に取った独特な戦略が第二次大戦中のドイツにありました。
第一次大戦に敗戦し負けたドイツにはいろいろと不利な制限が課せられていました。
新生ドイツ海軍には当然持っていいとされる軍艦の総排水量の割り当てが少なく制限されていました。
戦争に勝った国々の都合のいいように制限を課せられていたわけでした。
そこでドイツが考えたのが俗にいわれるポケット戦艦の建造でした。
ポケット戦艦とは多数の小型の潜水艦Uボートを使用した戦略と同じく通商破壊戦を展開し敵(主に永遠の宿敵イギリス)を兵糧攻めに遭わせるための装備でした。
ポケット戦艦とは重巡洋艦よりは遅いが重巡洋艦より大きな主砲を持ち、戦艦よりは小さい主砲だが戦艦よりは速い速力を持った特異な小型の戦艦でした。
要は普段は武装を持たない敵国の輸送船を見付けては撃沈し、敵重巡洋艦と遭遇した場合は敵重巡洋艦より大きな主砲の力で敵を撃沈する。
敵戦艦と遭遇した場合は戦艦より速い速力を利用して逃げるという使用方法をコンセプトとして計画建造された小型戦艦でした。
当事者のドイツ人にしてみれば真剣に取り組んでいたことなのですが、一見すると滑稽にも見える種類の戦艦でした。 -
0さん、初めて見る画像です、ありがとうm(__)mです、私でも書物読むより、分かりやすくありがとうございます、
0さんの言う 刻々と変わる、新型兵器 新型戦艦
当時日本は 大和や武蔵が日本の誇りであり、日本の象徴として、温存したかったみたいですね、
何かの本で読んだのですが、
世界三大無用長物
(でかいばかりで役にたたない)
①ピラミッド
②戦艦大和
③6気筒直列エンジン?
とか、 -
無用の長物というのも努力を注ぎ保有して持っていた当事者とただ外部から見て知っただけの部外者からすると受け取り方は大きく異なるので押しなべて一律とはいかないでしょう。
立場の違いで受け取り方は様々なのでどれが一番正しいというのはないのかも知れません。
大和級戦艦に代表される大艦巨砲主義の艦艇ですが当時は世界中の常識が大艦巨砲の戦艦をたくさん持っていることが現在でいう核ミサイルをたくさん持っていることと同じだったため、その国の国力と威信を示すバロメーターだったのです。
世界中の有識者の大半が有り得ないと主張していた航空機による攻撃で戦艦を沈めるという方法を世界に先駆けて実証した日本海軍でしたが当の日本軍内部にも大艦巨砲主義を崇拝する勢力が多く存在していました。
軍上層部の大多数の人々には未来のビジョンが見えていなかったため、たとえ正しいことを主張していても風変わりなことを主張する者は変人扱いされて邪険にされていたわけでした。
日本軍内部では全体の兵器体系でいうと大艦巨砲主義が有力で戦闘機でいうと一撃離脱方式の戦闘機よりも巴戦オンリーの戦闘機が有力とう凝り固まった考え方の状態でした。
改革派より保守派が牛耳る世の中だったということでしょう。
艤装中の戦艦大和
昭和十六年九月二十日
呉軍港
の写真を貼ります。
よく見ると艦首方向までよく写っています。
艦首方向の向こうがドックの出入口ですが何かカーテンのような物で仕切られています。
戦艦大和関連の書籍類に事あるごとによく出て来る棕櫚縄で編まれた巨大カーテンの目隠しです。
外から大和の船体を見られないように隠し、周辺の高台や山々には憲兵などを多数配置し警備して機密保持に心血を注いでいたらしいです。
当時、このために棕櫚縄を大量に買い付けたため棕櫚縄が希少な物になり市場から棕櫚縄が消えうせてしまうという現象も引き起こしていました。
ちょっと感の鋭い人なら一般人でも今何か起こっているようだなと気付いたでしょうね。
戦争の前触れとはそういう日常生活の些細な変化から読み取れるといいますから。
予算の消費や物の買い占めや大量の人員の動員など大和建造に費やした全ての労力を考えると無駄遣いといわれても仕方ないところもあるかも知れません。
しかし当時はそんな時代だったとしかいえませんね。 -
戦艦大和の場合は広島の呉でしたが二番艦の戦艦武蔵の場合は長崎、長崎でも同様にして機密保持に心血を注いでいたそうです。
近くを通る列車も造船所の近くを通過する際は常時乗車していた憲兵の命令で造船所側の窓はカーテンを下ろし見えなくするように徹底されていたそうです。
棕櫚縄の件など直接その地域に住んでいなくてもちょっと頭を働かせれば何か普通ではないことが進行中なことが想像できるくらいですから近隣地域の人たちは公な場では口には出さないけど知っていました。 -
書き忘れていました。
↑の添付写真の画面右側に写っているのは空母鳳翔の艦首部分です。
空母鳳翔は日本初の空母であり世界初ともいわれています。(掲載書籍次第で書かれ方が違い世界初ではないとするものもあります。)
いずれにしても世界的に航空母艦が誕生し始めた初期に建造された実験空母的性格の空母です。
日本海軍はこの鳳翔を使って船体や甲板や艦上構造物や艤装品などなどどういう物をどういうかたちで装備するのが一番最良なのかを試行錯誤しながら実証実験してその後の空母建造に役立てたのでした。
艦橋や煙突もどの場所にどんな風に設置したら一番良いのかもこの実証実験結果から決定されていきました。
そういう歴史の流れがあり空母の艦橋や煙突は右舷艦首寄りに設置するというのが常識化しています。
それは現在でも世界的な常識となっています。
空母開発の過渡期に建造された空母は左舷に設置している艦も存在しますが極めて少ない稀な艦といえます。 -
0さん、
画面右側、空母鳳翔、言われるまで気づきませんでした、日本初の空母であり世界初ともいわれています。掲載書籍次第で世界初ではないとするかも?
↑
初めて知りました、
戦艦大和は今もなお、沖縄の近くに海深く沈んでいるようで、
なんとか 今の日本の技術で引き上げられないのでしょうか?
戦艦三笠の記念艦が
あるとききます、
-
ヘルシアさん、おはようございます。(゚▽゚)/
鳳翔でいろいろな改造を施してはまた改造し直して実験を繰り返し日本の空母は進化して行きました。
そして巡洋戦艦から改造された空母赤城や改長門級戦艦から改造された空母加賀は最初は重巡洋艦の主砲用の20cm連装砲を二基搭載した三段空母として造られ後に通常飛行甲板の空母へと大改装されました。
これも三段式飛行甲板の使い勝手を試す大いなる実験でした。
世界的にも空母開発の過渡期に建造された日本の空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴などはそれぞれいろいろな艦橋配置、煙突配置になっています。
この時期も日本独自に考え出した方法で船体側面から下方へ湾曲させた煙突を出し排気ガスに海水を混ぜて放出し排気ガス温度を下げ煤煙を抑え着艦する艦載機の妨げにならないようにする工夫を凝らしてありました。
同じ時期に商船や他の艦種から改造された空母も概ね同様(飛行甲板上には艦橋を設けず飛行甲板下に艦橋を設けた艦も少なくありませんでした)。
そしていろいろと試行錯誤を重ね、やがて日本空母独自の形が定まり造られたのが煙突と艦橋を一体構造物として右舷艦首寄りに設置し煙突を26度外側に傾斜させ煙突トップが飛行甲板上から17mの高さになるようにしたものでした。
この型式で完成した空母には飛鷹、隼鷹、大鳳、大和級戦艦からの改造空母である信濃がありました。
この型式は日本独自なものでした。
飛鷹と隼鷹で実験的に試し、その後大鳳と信濃に導入されました。
大鳳と信濃はどちらもあっけない最期を迎えましたが新機軸を盛り込んで期待を背負った空母でした。
どちらも従来から空母という艦種の最大の弱点だった木製だけの飛行甲板をやめ、敵機からの爆弾命中の爆発にも耐えられるように主要範囲だけながら装甲化した飛行甲板を装備し航空攻撃に撃たれ強い空母となっていました。
これはミッドウェイ海戦で被った四空母喪失の時の反省点を反映した結果だったのかも知れません。
運用構想としては最前線でも装甲化した飛行甲板により敵機の爆撃に耐えて艦載機の離発着を敢行し攻撃を続行、ミッドウェイ海戦の時のように不幸にして母艦を失った友軍機がでてもその友軍機をも収容して攻撃を続行させるという運用用途を想定して建造されていました。
太平洋戦争当時の建造でしたが大鳳はエンクローズドバウと呼ばれる艦首の形をしており現代のアメリカ空母のような艦首形状でした。
ちなみに当時イギリス海軍でも同じような形状をしたハリケーンバウを採用していました。
イギリス海軍では大鳳と同じく飛行甲板の装甲化も図られており、装甲化によって大鳳と同様に格納庫容積は減少していましたが日本軍機の特攻機が飛行甲板に命中してもたいした被害を受けず残骸を排除して直ぐに戦線復帰出来ていました。
同じように日本軍の特攻機が飛行甲板に命中した場合に修理が必要な状態になっていたアメリカ海軍の空母とは歴然とした差がありました。
レスを投稿する
用途:戦闘機
分類:艦上戦闘機
設計者:堀越二郎
製造者:三菱重工業
運用者: 大日本帝国(日本海軍)
初飛行:1939年(昭和14年)4月
生産数:10,430機
運用開始:1940年(昭和15年)7月
退役:1945年(昭和20年)8月