ソロモン諸島上空を飛行する零戦二二型
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三菱製のハ43エンジンは中島製の誉エンジンに比べると無理をした設計をしていないぶん大きさと重さ的にいえば大きく重かったためハ43エンジンを搭載した場合の方が性能的には不利なはずでした。
しかし結果が逆に出たのは何故か?
それは実際に使われていた誉エンジンがメーカーのいうカタログデータよりいかに低性能であったかを如実に物語っていたわけです。
無理をした設計をせず堅実路線を選んだハ43エンジンの方が悪化した環境下でも確実な性能を出していたわけです。 -
まずハ43エンジンと誉型エンジンは共に傑作エンジンと評価された金星と栄エンジンをベースに、それぞれ14気筒から18気筒化に改め、更にブースト圧を上げ馬力向上を目指した
もので、ハ43は2200馬力、誉型では2000馬力を目標としたものやったんやな。
但し空冷星型18気筒エンジンはアメリカでも冷却問題等をクリアーするのに手を焼いた代物で、当然、燃料やオイル、プラグ等の全ての質がアメリカより劣る日本では、相当の技術的困難が発生し、それをクリアーして曲がりなりにも実用化に達成したのが誉型エンジンやな。
ハ43は、開発に当たり三菱では中島飛行機で開発中の新型18気筒エンジンが画期的な高性能を目標にしてる旨の情報を聞き、次世代の大馬力エンジンを開発する計画のもとにハ43が設計される経緯となったんや。
当然、ハ43に於いても誉型エンジンと同じような燃料問題や油圧低下の様々なトラブルが発生し、終戦間際になっても技術的問題を抱えたまま試験飛行の機体に搭載されたのがハ43の現状やな。
零戦の次なる艦戦が一日でも早く実戦配備したい海軍と自社の新型エンジン実用化を標榜して開発された烈風は、レシプロ戦闘機としては正常進化した機体で、先々に計画されるであろう大馬力のエンジン換装に合致した機体やったんやな。
惜しむらくは、烈風はエンジンの熟成途中で終戦となった事やな。
実際は中島飛行機の荻窪のエンジン製作工場が爆撃により壊滅して、ハ43供給の目処が絶たれたけどな。 -
中島製 誉エンジンを搭載した試作機 試製烈風のテスト飛行の結果は操縦性と飛行特性は悪くなかったものの最大速度520km/h程度、高度6000mに達するまでの所要時間は10分もかかり、零戦の再来を望み大きな期待をかけていた海軍ならびに開発関係者全員を落胆させました。
零戦より低い性能では後継機とするのは無意味であり当然烈風の開発は中止と決定されました。
顧客でありユーザーにあたる海軍から強引に決定付けられた誉エンジンの搭載でしたが開発を担当したプライムメーカーである三菱側は納得がいかず、使用していた誉エンジンを下ろして地上テストで出力の再確認を行ったところ中島がいっていたカタログデータである2000馬力はおろかメーカー主張カタログデータの80%(1600馬力程度)しか出力が出ていない事実が証明されました。
これ以前から軍部は新しく開発される軍用機に軒並み誉エンジンを採用するようごり押しで命令していましたから、これらの軍用機は軒並みトラブルだらけとなり大混乱を招いていました。
たくさんの新型機に強制的に採用させたぶんテスト使用する機会は増えたため当然実用化のための実験は進展していました。
しかし軍部から優遇され実用化のための実験が進んでいたといいながら80%の出力しか出せていないのが現実でした。
軍部が特定のメーカーにエンジンの押し付けをしたりエンジンの供給をさせず冷遇するなどの行為は何も日本だけの話ではなくどこの国でも少なからずある話であり昔だけの話でもなく現在でもある話なのです。
臭い話には蓋をしろ的な考え方は良くないと個人的には思います。
良くない話でも本当の話を語った方がいいと思います。
我が身に良い話ばかり語っていると良い未来はありません。
良い悪い関係なく事実は事実として認めていかないと良い未来はありません。 -
日本の戦闘機好きです。
日本の発動機も好きです。
好きですが、それらには良い部分も悪い部分も当然あります。
零戦開発当初、十二試艦上戦闘機が搭載した三菱製 瑞星エンジンもその後の中島製 栄エンジンも三菱製 金星エンジンも好きです。
中島製 誉エンジンも三菱製 ハ43エンジンも好きです。
たとえていうなら中島製 栄エンジンは良く造り込まれた大量生産車用の使い勝手の良いエンジンだとすれば、中島製 誉エンジンはそれをベースにして気筒数を増やし特別にチューンしたレーシングカー用のハイオク仕様特殊エンジンであり、職人の匠の技に依存し切った美術工芸品のようなエンジンだといえます。
国家の総力戦で戦わねばならない近代戦にあたり職人技に依存するしかないレーシングカー用の特殊エンジンで戦おうと考えたのが日本の軍部だったといえます。
こういう表現で聞けば太平洋戦争当時の日本の軍部の先を見通す目がいかに愚かだったかがよくわかると思います。
兵器というものは高性能なものが望ましいのは当然ですが、先ず第一はいつでも確実に作動する信頼性がなかったらすべては無意味なのです。
真面目に堅実にの精神をいつの間にか忘れ、気がついたら自分が理想とする夢だけを追いつづけ敗戦を迎えていた。
それが当時の日本の軍部の姿だと思います。
国家の総力戦たる近代戦では極々少数の兵器がたとえ高性能であってもあまり意味はないということでしょう。
総力戦なのですから。 -
兵器は高性能なものが望ましいが、いつでも確実に作動する信頼性がなかったらすべては無意味。というのは零戦のエースパイロットだった坂井三郎氏が生前語られていた戦後の言葉「戦闘機の各種の高い能力も長く飛んでいられる能力がなければすべて無意味だ。」と本質的には同じだと思います。
無理に無理を重ね痩せ我慢して小型高出力のエンジンを搭載しても動かなければ無意味だし、力が出なければ無意味だし、飛べなければ無意味ということと同じです。
それを強引に推し進めたのが太平洋戦争当時の日本の軍部。
我々日本人にとっては良くない話ですが、真実は素直に直視することこそが、より良い未来へと繋がる正しい道だと信じます。 -
まぁ何やな対米戦に突入した時点で次期高性能戦闘機のエンジンとしては、誉型エンジンしか選択肢が無かったんやな。
誉型エンジンのベースとなった栄エンジンも開発当時は先進的な構造設計で実現は困難と言われとったんやがな。
それでも馬力向上は戦闘機の性能には不可欠なもので次世代へ繋がる技術への挑戦として様々な試行錯誤と失敗を繰り返した後に実用化に成功したんやな。
当然、栄エンジンが熟成したらその次の新型エンジンとして更なる高性能化を模索するのが技術的な正常進化で、栄エンジンをベースに18気筒して誉型エンジンへと繋がった事は自然の成り行きやな。
誉型エンジンの馬力低下はエンジン自体に起因するものでは無く、主だった原因は、マニフォールドの鋳型の形崩れによる形状不可の為と、その他、様々なトラブルによるもので、技術陣はこれを全力で解決し、海軍では紫電改で陸軍では疾風の後期型で誉型エンジンはほぼ実用化の域に達してた訳や。
特筆すべきは陸軍飛行47戦隊の刈谷整備大尉の指揮下で整備された疾風は稼働率100パーセントを誇り
、高性能エンジンに必要手順に従った整備が稼働率の高さに繋がったんやがな。 海軍の343空の紫電改の整備隊でも熟練整備士官の手になる機体は高い稼働率を誇っとるんや。
このように熟成を重ねた誉型エンジンやけど、18気筒と言うシリンダー数ではキャブレター方式では各シリンダーへの均一な燃料供給が困難になりつつあり、これが振動等の原因となったんやけど、対策方としては、低圧燃料噴射装置を持って誉型エンジンの根幹的な弱点が克服されようとしたんや。
終戦により実用化にならんかったんが残念やったのう。 -
戦争責任を全て潰え去った軍部に押し付け、自分達が被害者面する様は非常に醜いもんや。
対米戦突入も当時のマスコミや国民がアメリカなにするものとの鼻息も荒く、日本全体が対米戦やむなしとの機運が高まっていたんとちゃうかかな。
いわば戦争やそれによる戦禍は日本人全体の連帯責任やろな。
いざ対米戦になったら航空機の性能向上は必至で、実際に部下の命を預かり米軍機と対峙する指揮官達は、軍部に機体の性能向上要求を火のように要求するのは至極当然やろな。
切羽詰まった状況ではメーカー側に理不尽な要求したのも前線からの命を的にした要求があったからこそやな。
メーカーも戦争により多大な利潤を得てるのやから多少の無理な事は成し遂げんとアカンやろ。
NHKの番組での曾根技師による海軍への恨み節もNHK主導による海軍悪玉論が見え隠れして釈然とせんものを感じたんや。
零戦の搭乗員であった人達は海軍の戦闘機搭乗員として零戦で大空を駆けた事に誇りを感じており、防弾装置云々の恨み節は坂井三郎元海軍中尉その人以外には言及する者は非常に少ないのとちゃうやろか。
まぁOさんも 軍部に対して悪玉論を打ってもどうにもならん事やから、かって太平洋洋上を我が物顔で艦艇や航空機を繰り出した海軍の見敵必殺の精神に免じで
暫し、滅びの美学を垣間見てくれたらエエがな。
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何も太平洋戦争の責任を軍部に押し付けるということではありません。
変に曲げて受け取らないで下さい。
太平洋戦争についてのことは日本人全体の責任です。
それがあることは念頭に置いた上で日本人の一般個人個人は個人であるだけに個人でやれることには限界があり力が弱かった。
それに引き替え政府や軍部などの大きな組織は力も統制力もあるため、やれることはたくさんあった。
戦争時だからこそ日本人国民をより良い方向へ導く責任があった。
この責任は重大なものであり、これを間違った方向へ強制し導いてしまった責任はごめんなさいでは済まされないということをいっているのです。
何事もおかれた立場次第で責任の重さは天と地ほど違いますからね。
それから人命を重視した防弾装備は絶対必要だと訴えたのは坂井三郎氏をはじめとした前線で戦っていた兵士たち自身であり、いらないといっていた人など聞いたことがないです。
そしてこの兵士たちの叫び声にも似た声に応えることが出来るようにやらせてくれと訴えていたのが曾根技師たち技術者たちでした。
その声を「弛んでる!けしからん!」といいながら黙殺し続けたのが実際には最前線で命をかけて戦うこともなかった軍部の上層部の人間たちだったのです。
これを書いただけです。
実際に命をかけて戦っていた人たちが語っていた生の声です。
悪かった歴史を直視せず、捩曲げる者は将来にも又、同じ過ちを繰り返すでしょう。
反省の出来ない者に物事の改善は無理だからです。 -
まぁまぁ興奮せんと落ち着きや。
戦闘機の防弾装置もそれぞれ昭和14年と15年に試作の内示があった雷電と強風に防弾装置の必要性が指示されとったんやな。
防弾に関してはノモンハン事変でソ連機と壮絶な空中戦を行った経験が有るだけに隼は、既に燃料タンク防弾がされていてこの点では海軍を一歩リードしとったなぁ。
海軍でも紫電改では実用に耐える防弾装置が施されとるがな。
まおワイはあんまり頭の回転がエエ事、無いよって難しい話を振られても難儀するだけやから気楽な話を頼むわ。
ほなまたな。 -
0さん、権兵衛さん、
すごく 勉強なりました、
私はエンジンの事は、さっぱりわかりません、
しかしながら、太平洋戦争で、命をささげた、英霊の方々には
深く深く、頭がさがります、
私は戦争に関する 映画やテレビ大好きで、いつも見ております、
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用途:戦闘機
分類:艦上戦闘機
設計者:堀越二郎
製造者:三菱重工業
運用者: 大日本帝国(日本海軍)
初飛行:1939年(昭和14年)4月
生産数:10,430機
運用開始:1940年(昭和15年)7月
退役:1945年(昭和20年)8月