ソロモン諸島上空を飛行する零戦二二型

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  • 1ヘルシア
    2013/11/06(水) 12:37:06 ID:O1rszpB6O
    皇紀2600年を記念して、下1ケタをとり、零式戦闘機としたとか、
    用途:戦闘機
    分類:艦上戦闘機
    設計者:堀越二郎
    製造者:三菱重工業
    運用者: 大日本帝国(日本海軍)
    初飛行:1939年(昭和14年)4月
    生産数:10,430機
    運用開始:1940年(昭和15年)7月
    退役:1945年(昭和20年)8月
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  • 295
    2014/03/06(木) 16:44:47 ID:1bJfmMTgO
    ヘルシアさん、こんにちは。(゚▽゚)/
    ほとんどの戦艦の主砲はヘルシアさん言われた通り砲弾と薬嚢と呼ばれる袋に入った発射用火薬を砲身に詰めて発射していました。
    薬嚢の量を増やしたり減らしたり砲身の俯仰角を変えたりして射撃で飛ばす距離を変更していたようですね。
    私も昔は全ての戦艦の主砲はそうなのだと思っていたのですが一部には薬莢を使うものも存在していたことを数年前にはじめて知りました。
    先日お話した第二次大戦中のドイツ海軍のドイッチュラント級ポケット戦艦がそれで基準排水量11700t(あくまでも表向きだけだと思われます)の船体に主砲として52口径28.3cm三連装砲を二基搭載していてこの主砲の砲弾が薬莢式でした。第一次大戦で敗戦国となったドイツは戦勝国に都合良く作られたベルサイユ条約を突き付けられ保有してもいいとされる軍艦に細かな制約を加えられており、この艦を建造する時も旧式の退役する軍艦の代わりの艦として建造してもよろしいとされたものの排水量は1万トン以下で搭載する主砲の大きさも口径28cm以下でなければならないなどという軍備抑制策を課せられていました。
    それでドイツが考えに考えて出来上がったのが通商破壊戦に特化した通称ポケット戦艦と呼ばれるドイッチュラント、アドミラル・シェーア、アドミラル・グラーフ・シュペーの三隻でした。
    ドイツはベルサイユ条約に従い排水量は1万トン以下に抑えたと公表していましたが、ぱっと見ても1万トン以下には見えませんし1万5千トン前後はゆうにいってるようにしか見えません。
    当時みんなもそう思っていたことでしょう。


    その二番艦アドミラル・シェーアの52口径28.3cm主砲の砲弾の薬莢の写真とジブラルタル海峡での二番艦アドミラル・シェーアの写真を貼りますね。
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  • 296
    2014/03/06(木) 16:58:22 ID:1bJfmMTgO
    当時直接遭遇する可能性があったのはアメリカ海軍の軍艦ではなく、敵となるのはほぼイギリス海軍の軍艦のみでした。
    当時のイギリス海軍の戦艦は22ノット程度のスピードしか出せなかったため、ばったり出くわしても26ノットという優速を利して易々と逃げることが可能で、逆に重巡洋艦に出くわした場合は敵は最大でも20cm砲しか持っていないので楽に敵重巡洋艦を圧倒し撃沈することが可能でした。
    誠に「自分に課せられた不利な制約を逆手にとった」素晴らしいドイツ独特の戦略でした。
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  • 297
    2014/03/06(木) 17:11:23 ID:1bJfmMTgO
    ドイツのポケット戦艦の戦略は↑に書いた通りですが、いろいろな海上航路の近辺をうろうろうろつき邪魔者が居なくなれば本来のお仕事である通商破壊活動に専念し武装を持たない輸送船を探しては沈めまくり永遠の宿敵イギリスを兵糧攻めに遭わせるという日常でした。
    それを可能とするために船体にはアルミなどの軽金属を使い軽量化して航続距離を長く出来るディーゼルエンジンを動力とし当時としては斬新な技術を惜しみなく投入した小型戦艦となっていました。
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  • 298
    2014/03/06(木) 18:28:12 ID:1bJfmMTgO
    大和級戦艦も計画当初は長大な航続距離が得られて敵弾を被弾した時にも火災になり難い機関であるディーゼルエンジンを動力にしようと考えられていました。
    しかしこれらの長所を持ちながら大和級戦艦の船体という巨体を十分に動かせるだけの大出力のディーゼルエンジンを作るのは当時の日本にとってはかなりハードルが高く動力の不調という不安材料を抱えるよりはここは手堅く従来型の機関を採用しようということになり結果として優秀とはいい難い最大速力や航続距離になりました。
    その点を考えると当時としては大型艦用のディーゼルエンジンを実用化出来ていたドイツはさすが技術立国という感じです。
    単純な比較の一例として同じ従来型の機関を使っていても実用的に使用出来るエンジン内部の燃焼温度の高さの違いを見較べれば日本とドイツでは歴然とした差が存在しました。
    燃焼温度を高く設定して使っても問題が発生しないということはそれだけ基礎技術レベルの水準が高いということでありそれだけエネルギーを引き出せる効率が高く高出力エンジンにもなるということです。
    ドイツよりも低い燃焼温度で運転しないと直ぐに異常をきたしたということは残念ながら日本の技術レベルがドイツよりも低かったという証です。
    構成部品の材質や加工精度が技術的にも劣っていたということでしょうね。
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  • 299
    2014/03/06(木) 19:19:59 ID:1bJfmMTgO
    当時の日本の細かな基礎工業技術レベルの水準がドイツよりかなり劣っていた端的な事例としては潜水艦がありました。
    ドイツは第一次大戦の時代から第二次大戦に至るまで世界中に名が知れ渡っていたUボートという潜水艦で世界中を震え上がらせたことで有名です。
    基本的にドイツの潜水艦は小型高性能で大量生産型の潜水艦、日本の潜水艦は大型で大量生産向きとはいえない潜水艦でした。
    大きさだけでいえばこの二国の特徴は現在でも同じ傾向を継承しています。
    当時違っていた二国の差は基礎技術力の差による基礎的な性能差でした。
    太平洋戦争当時秘密裡にドイツに派遣された遣独派遣団の日本の潜水艦は途中で連合軍に沈められたものも多くやっと辿り着けた潜水艦もありました。
    日本の潜水艦は元々は第一次大戦でドイツから戦利品として譲り受けた潜水艦、ゲルマニア造船所で造られたUボートの研究から発達した大型の外洋型潜水艦で当時ドイツで主流だったUボートの倍以上の大きさでした。
    船体が大きいということはたくさん物を搭載出来るため遠くの海まで進出して活動するのには有利でした。
    しかし当時の日本の基礎工業技術レベルはドイツより劣っていたためネジ一つから船体に至るまで質が良くありませんでした。
    ドイツ占領下のフランスの軍港にやっとのことで辿り着いた日本の伊號潜水艦は出迎えてくれたドイツ軍のスタッフに後から「これでは海中に潜航しながら大声でここに居るよ〜と叫びまくっているのと同じだなあ」とわれたそうです。
    それだけ日本の潜水艦が出す海中ノイズは酷かったそうで闇夜の提灯状態(敵に直ぐに狙い撃ちされるような状態)だったそうです。
    そしてドイツと取引した品々を搭載して日本へ帰国する際にはこのままの状態ではあまりに酷すぎて直ぐに敵に居場所を探知され沈められてしまいますよというアドバイスを受けドイツの技術スタッフによりノイズ防止の対策を施してもらい帰国したそうです。
    艦内にある架台へのエンジンのマウント方法から何から何まで様々な部分に改良とアドバイスをしてもらうほど基礎的技術レベルに大差が存在していたようです。
    昔、潜水艦の多くの技術を教えてくれた先生の母国を訪問してまた再び先生からいろいろと教えてもらったという感じですね。
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  • 300ヘルシア
    2014/03/07(金) 01:31:28 ID:fgy7xiO2O
    0さん、素晴らしいコメント
    感服しました、
    ポケット戦艦、←これも勉強しました
    ここで
    第二次大戦中 の拳銃及びライフル、マシンガン
    (代表的な)
    ドイツ
    ワルサーP38
    ワルサーP08
    モーゼルK98(ライフル)
    シュマイザーMP40
    ワルサーPPK
    アメリカ
    ガバメントM1911-A1
    トンプソンM1A1
    M1カービン
    日本
    南部14年式自動拳銃
    94式自動拳銃
    38式歩兵銃


    だいたいの各国の使用銃 です、
    まだまだたくさんありますが、
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  • 301ヘルシア
    2014/03/07(金) 02:00:48 ID:fgy7xiO2O
    訂正

    ワルサーP08←×
    ルガー P08←〇
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  • 302
    2014/03/07(金) 22:43:08 ID:a4gElK1cO
    拳銃はあまり詳しくありませんが、画像を貼りますね。
    南部十四年式拳銃です。


    南部十四年式拳銃は大正十四年採用だそうで実に21年間も現役として使用されていたようですね。
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  • 303ヘルシア
    2014/03/08(土) 00:24:50 ID:W25EIY4sO
    0さん、

    一枚目の画像は
    南部14年式 の前期型と
    後期型ですね、

    後期型は トリガーガードが 少し前に膨らんでいます、手袋したままで、人差し指が入れやすい、引き金を引きやすい

    零戦から 話がそれてしまいました、

    零戦を誕生させた
    堀越二郎ですが またその部下の技術者たちによる、
    堀越は群馬県出身
    東京大学 航空学科 昭和2年卒業
    同級生5〜6人理系の秀才と共に、三菱に入社
    2年後ドイツ、アメリカと渡りました、航空設計の勉強、当時の技術者としては最優秀、この時零戦の主務者で30代半ば、
    チームとしては、計算担当、機体構造、動力装置、兵装、降着装置の各2名この中の一人東条輝雄は戦後、我が国で唯一開発された旅客機YS11の、
    主務者を務め、その後
    三菱重工の社長、
    ちなみに彼は東条英機首相の ご子息だとか、
    0 0
  • 304
    2014/03/08(土) 05:13:07 ID:4CUGkbuMO
    ヘルシアさん、おはようございます。(゚▽゚)/
    海軍の三菱零戦にならび活躍した戦闘機として陸軍の中島一式戦隼がありますが、その中島飛行機㈱で一式戦闘機隼や二式単座戦闘機鍾馗の設計に携わっていたという糸川英夫技師のコメント映像を見たことがあります。
    糸川英夫技師は日本のロケット開発の父とも呼ばれた人で太平洋戦争後はロケット開発で日本の宇宙開発に多大な貢献をしたことで知られた人物でした。
    つい何年か前に探査機を使って移動している小惑星上に着地し小惑星の砂を回収して地球へ持ち帰るという世界的快挙を日本のJAXAがやってのけましたが、糸川氏の日本の宇宙開発における多大な貢献からその惑星探査機にハヤブサという名前が付けられたり、探査する小惑星がイトカワと名付けられたりしています。
    そのコメント映像の中で糸川氏は隼や鍾馗の開発をした時期前後の話から当時の苦労話までいろいろと語られていました。
    そしてその中には零戦を開発した三菱の堀越二郎技師の話や零戦の話も出て来ました。
    糸川氏がいうには同じ戦闘機設計技師という同業者として見ると堀越氏は非常に真面目でキッチリやらないと気が済まない性格の人だったと。
    堀越氏が設計した零戦はドイツのゲッチンゲン大学のプラントル教授の翼の理論というのをキッチリ守って設計されていると。
    堀越氏は非常に真面目な人だから優等生的にキッチリ守って設計されてますねぇ。
    といわれていました。
    無理難題ばかり命令して来る軍側と渡り合いながら隼で苦労し、また隼とは真逆の性格の戦闘機鍾馗でも苦労した糸川氏は私だったら真面目にキッチリ理論を守って設計するというのは出来ませんといわれていました。
    糸川氏は隼の前の陸軍主力戦闘機である九七式戦闘機でも陸軍側から無理難題の命令を突き付けられて大変苦労したことも語られていました。
    とにかく技術的な理論だけを守っていたら軍側から突き付けられて来る無理難題の命令には対応出来ないといわれていました。
    技術者たちが「やっちゃダメよ」ということは必ずといっていいほどいうことを聞かないのが軍でしたと。
    禁止されたことは守らないのに何か問題が起きると技術者たちを呼び付け「お前たちの会社が作る戦闘機は不良品じゃないか!」と怒り付ける人がほとんどだったというお話で、今でいうところのモンスタークレーマー(執拗に文句ばかり付けて絡んで来る客)みたいな存在だったようです。
    時は折しもノモンハン事変から太平洋戦争と戦争の続く時代真っ只中でしたからたとえ正論であっても一言でも口答えすると「貴様はお国を守る兵隊さんに歯向かう気かあ?」となるのがごく当たり前の時代だったそうです。


    上から順番に中島一式戦闘機隼、二式単座戦闘機鍾馗、晩年の糸川英夫氏の画像を一枚貼りますね。
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