ソロモン諸島上空を飛行する零戦二二型
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中島飛行機㈱は現在のスバル自動車の前身の会社。
中島飛行機㈱は中島知久平という人が社長だった会社。
陸軍の一式戦闘機隼は九七式戦闘機の後継機で海軍の零戦に近い設計思想で造られ零戦に類似した性能を示した巴戦に強い戦闘機でした。
隼が搭載していたエンジンは八-25といい零戦が搭載した栄一二型エンジンの陸軍バージョンでした。
二式単座戦闘機鍾馗は海軍の三菱雷電と同じ用途を目指して造られた対大型爆撃機用の迎撃用戦闘機でした。
鍾馗も雷電と同じく高い最高速度と高い上昇能力を第一優先に設計されたため爆撃機用の直径の大きな空冷エンジンを搭載した割に主翼面積が小さい作りの戦闘機でした。
陸軍も海軍もスピードを最重要視した迎撃用戦闘機を要求しながも高い空戦能力も同時に要求したため鍾馗は蝶型フラップを装備、雷電はファウラーフラップを装備して小回りを効かせられるように設計されていました。
同じような条件、同じようなコンセプトで造られた両機でしたが、中島の鍾馗は大きな機首から後ろに向けて急激に絞り込んでいく設計、対する三菱の雷電は大きな機首を紡錘形に整形した設計で、どちらの設計も設計技師たちの独自な個性が滲み出ていました。
結果的には終戦後に両機ともアメリカ軍にテストされ、鍾馗も雷電も迎撃用戦闘機としては最高な戦闘機だと高い評価を得ていたそうです。 -
世界中にその名前を知らしめた日本の零戦。
それは良くも悪くも日本人の歴史と国民性を代弁している存在だといえます。
零戦に代表される日本の軍用機の特徴は今なお日本に日本人に受け継がれている。
その証拠に現在に至るまで日本人が作る様々な製品は同じような傾向を持っています。
一例として上げるなら車でも家電品でもタフとは言い難いが軽量小型な割に燃費や消費電力が少ないものを作るのが得意。
そのような日本を代表するような零戦のことを語るならば当然、当時日本海軍の零戦と双璧を成していた日本陸軍の一式戦闘機隼を語らないわけにはいかないので中島飛行機㈱の一式戦闘機隼そして次いでに二式戦闘機鍾馗についても書きました。
しかし、そもそも一式戦闘機隼のことを書くならその前作の九七式戦闘機から始めなければなりません。
中島飛行機㈱で開発されたキ27九七式戦闘機は同時期の三菱九六式艦上戦闘機(零戦の前作にあたる)と共に空前の成功作機となり、これらの成功により日本は世界水準を超える戦闘機を自分で作り出せるようになりました。
日本はこの時期を境に研究用サンプル機以外の外国製戦闘機は一切輸入しなくなりました。
輸入しなくてもよくなったといった方が正しいでしょう。
その陸軍のヒット作戦闘機中島キ27九七式戦闘機の写真を貼りますね。
ノモンハン事変でうようよ湧いて出て来る大量のソ連製戦闘機ポリカルポフI-15やI-16をバッタバッタと叩き落としまくりました。
この時の陸上戦闘では日本が劣勢でしたが航空戦の空中戦では日本が優勢で圧勝していたといいます。 -
太平洋戦争直前から終戦までの間の主立った日本陸軍戦闘機は傑作機といわれた中島飛行機㈱の九七式戦闘機から始まり終戦間際の川崎飛行機のキ100五式戦闘機までとなります。
これは試作段階のものを除く実際に使われた戦闘機だけでこれだけになります。
僅か十年間で陸軍の戦闘機だけでもこんなにたくさんのものが開発され使用されました。
平和な時代に比べると戦時中は技術が加速度的に急激な進歩を遂げるといういい実例です。
敵と戦う毎に兵器を実戦使用するため不具合点が直ぐに浮き彫りとなり日々改良が繰り返されるため技術が急激な進歩を遂げるという流れです。
今のような平和に溺れた時代では想像もつかない目まぐるしさだったと思います。
参考資料として一連の陸軍戦闘機の写真を貼ります。
上から中島飛行機のキ43一式戦闘機隼、キ44二式戦闘機鍾馗、川崎飛行機のキ61三式戦闘機飛燕、中島飛行機のキ84四式戦闘機疾風です。
液冷式エンジン搭載機のため三番目の飛燕を除いて眺めると一式戦、二式戦、四式戦と中島飛行機製の戦闘機の発達の流れが良く見て取れると思います。
軽量化に徹した一式戦、極端に大きなエンジンと小さな翼で一撃離脱戦法に適するよう苦心して作られた二式戦、大東亞決戦機と呼ばれエンジンの大馬力化と小型化の両立により巴戦にも一撃離脱戦法にも強い戦闘機を目指して苦闘しなが作られた四式戦。
一見したところどれも同じように見られがちですが、よく見るとそれぞれの個性が輝いていて全くの別物同士でした。 -
0さん、こんばんわ
中島飛行機㈱が現在のスバル自動車の前身の会社とは知りませんでした、
テレビ映画「連合艦隊」がありましたので、
録画して、いちぶ部分ですが、 -
昭和19年、最後の日本空母、
「ずいかく」
の船内で、 -
「瑞鶴」
失礼しました、 -
沖縄へ出撃する 大和
零戦のライバル
F6Fヘルキャット(グラマン社製)が大和に襲いかかる 発砲する戦艦大和
F6Fヘルキャットで正解かなぁ -
ヘルシアさん、おはようございます。(゚▽゚)/
日本が太平洋戦争に敗戦した後、日本を占領したアメリカは日本への戦後政策として「再び日本が好き勝手に戦争を始めないように」という策略から
・日本が持っていた兵器の破壊。
・日本の兵器に関わる工場や生産設備の破壊。
・日本の優れた技術者や権威のある有識者の公職からの追放。
・日本の大手メーカー、財閥の解体。
・アメリカによる現在の平和憲法の押し付け。
を行いました。
これにより様々な制約を受けたため戦闘機などを作っていた技術者たちも職を失い仕方なく鍋や釜を作って生活を食いつないでいました。
アメリカから禁止された物以外でと考えスクーターや自動車(最初の頃の開発車としてはスバル360ccが有名ですね)を作り始め、それを足掛かりに富士重工やその関連会社が出来、また寄せ集まって富士重工グループが出来上がったというところですね。
富士重工は現在では航空機開発から宇宙開発まで手掛けておりスバルは富士重工の自動車部門にあたる会社になります。
戦時中に中島飛行機㈱が戦闘機を量産していた跡地に現在のスバルの自動車生産工場もあります。
話変わって空母翔鶴の二番艦が瑞鶴ですが、翔鶴は武勲艦と呼ばれていた一方で瑞鶴は不運なことが多く被害担当艦などと呼ばれることもありました。
そして敵艦隊の目を逸らす目的で囮部隊として出撃する羽目になり沈んで行きました。
まだ幼顔の若い兵士が片道切符で敵艦に体当たりなんてとても悲しいですね。
ヘルシアさんの動画、戦艦大和の主砲発射シーン、これは主砲による対空射撃なので三式焼霰弾による敵機編隊への射撃だと思いますよ。
46cm砲弾の中に内蔵した無数の焼夷弾子による霰弾攻撃です。
密集体系で飛行して来る敵航空機編隊に効果的だとして日本海軍の巡洋艦や戦艦の主砲に採用された装備でした。
その三式焼霰弾の写真と三式焼霰弾の炸裂の様子を記録した資料写真を貼りますね。
それからこの時期(大和の沖縄特攻時)のアメリカ海軍空母の主な艦載機の写真も貼りますね。
上からグラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機、グラマンTBF/TBMアベンジャー艦上攻撃機、カーチスSB2Cヘルダイバー艦上爆撃機です。 -
0さんの おっしゃるとうり、ですね、
日本は昭和20年の終戦を迎えて、
ポツダム宣言受諾.無条件降伏により 日本にある、あらゆる
武器が廃棄されましたね
そのなかにも、日本刀もありました、
日本軍が持っているって事で刀剣は武器と言うことで進駐軍に没収、
で、軍隊が所有刀剣だけでなく、民間人の持っている刀剣も含むとポツダム宣言にあるそうで、
美術品であるか?
武器なのか?議論され
またそのどさくさ紛れて神社仏閣にある、文化財級の刀剣も、GhQが戦利品として持ち帰ったとか、
刀剣ファンの私としては残念でなりません、
私の趣味
刀剣
日本史
戦争映画
ゴルフ
熟女 -
皆さんはじめまして。『連合艦隊』私も好きです。中井喜一さんのデビュー作品です。写真は江田島市の海軍兵学校の『雪風』のアンカーです。
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用途:戦闘機
分類:艦上戦闘機
設計者:堀越二郎
製造者:三菱重工業
運用者: 大日本帝国(日本海軍)
初飛行:1939年(昭和14年)4月
生産数:10,430機
運用開始:1940年(昭和15年)7月
退役:1945年(昭和20年)8月