ソロモン諸島上空を飛行する零戦二二型
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戦艦比叡は元々は巡洋戦艦であったため通常の戦艦に名付けられる旧国名ではなく山の名前である比叡山の比叡という名前が名付けられています。
一応、姉妹艦になる金剛も榛名も霧島も同様です。
金剛はイギリスのビッカース社に建造を依頼して輸入した艦でこれを最後に日本は外国からの輸入をやめ国産艦建造に乗り出して行きました。
二番艦の比叡はその最初の国産建造艦となりました。
しかし後々、各艦近代化改装を何度となく行う際に他の三隻には問題は起きなかったのに一番艦の金剛だけは穴を空ける時に使うドリルが折れて使い物にならなくなるということが発生しました。
師匠であるイギリスが造った一番艦金剛を真似て姉妹艦を造ったつもりでしたが特殊鋼の装甲板を作る際の日本とイギリスの技術力の差が如実に表れた事例でした。
二番艦の比叡は大和級戦艦建造の事前テストケースとして艦橋部分は大和級戦艦のような艦橋に改装されました。
だから良く似ている(大和級戦艦の艦橋が比叡の艦橋に似ているといった方が正しいかも知れませんね。)ヘルシアさんが見間違えたのも無理もないことです。
同じような事前テストケースは他にもあり空母大鳳や信濃の煙突一体型島型艦橋は客船改造空母隼鷹や飛鷹で事前に実用テストされていました。
戦艦比叡と大和級二番艦武蔵の艦橋が良く判る画像を貼りますね。 -
大和級戦艦建造の事前テストケースを務めた関係上、戦艦比叡だけは他の姉妹艦三隻とは違う姿の艦橋シルエットとなっていました。
大和級戦艦の艦橋の事前テストケースだったため姿が似ているのはもちろんながら光学式測距装置やレーダーの配置や機能に至るまで機能的な配置も似ていました。
いわば戦艦比叡を使って大和級戦艦の光学式測距装置やレーダーによる敵の探知、敵へのレーダー射撃なども研究していたようです。
よく日本はレーダー射撃なんて到底無理だったといわれることが多いですが、テストもせっせと行っていたのが事実でした。
只、惜しまれるのは当時の日本の電子部品は現在とは全く逆で壊れ易く信頼性という点では絶対とはいえなかったことです。
大和級戦艦では射撃用レーダーとして二号二型電探(よく22号レーダーと呼ばれ紹介されることが多いラッパを二段重ねにしたような小型レーダーです。)を使っていたようです。 -
ヘルシアさん、0さん今晩はです。 大和型や金剛型も好きなんですが、最近は西村提督と壮絶な最後をとげた『山城』『扶桑』に興味があります良く旧式戦艦に分類されておりますが写真は『山城』のプラモです。
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0さん、戦艦比叡と戦艦武蔵の画像を
何度も見させていただきましたが
いまだにわかりません
大きさでいうなら 下の画像が武藏カナ?
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きんたさん、西村提督と 言えば、レイテ沖海戦の 勇者 ですね、
しかし0さんは、日本の軍艦、飛行機、めちゃくちゃ
勉強してますね。
まいったなぁ、
そういえば 権兵衛さん どうしてるかなぁ。 -
戦艦扶桑と山城は第一次大戦中の建造ですから旧式艦に分類されるのもしかたのないことかも知れませんね。
それから改装をたくさん行ったため、この二艦は艦隊で過ごした期間より改装のためにドック入りしていた期間の方が長いことで海軍内部でも知られていました。
この二艦は早い時期から重点的に改装をたくさん行っていたため、いざ戦闘をする際には他の艦より全ての装備品が旧式化していたのも旧式艦に分類されてしまう理由となっていました。
毎度毎度タイミングが悪かったともいえるでしょう。
最期はアメリカ軍からの多数の魚雷攻撃とレーダー射撃を受けて弾火薬庫の誘爆を起こし沈みました。
やはり日本はレーダーの技術が劣っていたのは相当痛かったですね。
日本ははじめは八木・宇田アンテナなどを作り出し世界的にも進んでいたのに軍上層部の先を見通す力のなさから早期開発を促進出来ず逆に阻害してしまい欧米諸国に追い越されてしまったことは返す返すも残念なことです。
陸軍などは戦利品の移動式レーダーの使い方を尋問中にイギリス軍捕虜から日本人なのにヤギアレイを知らないのか?
と逆質問され教えられる始末でしたからね。
全くあきれます。 -
0さんがおっしゃるように、当時の日本海軍は、作戦を重視、情報を軽視し、アメリカの戦力を過小評価、組織軽視、でした、また軍上層部の敗北の隠蔽、
太平洋戦争のレーダーの 暗号解読の重要性を日本海軍は軽視したと言わざるをえません、
日本海軍はイギリスから 「ジェントルマンシップ」を学び
相手の通信を盗むということは、紳士のすることではない、諜報活動は泥棒行為と、
正々堂々と作戦で打ち破る、と言うのが、日本海軍の伝統であり サムライの信念でした、
しかしながら、時代はそれを受け付けてくれません、
かの幕末の戊辰戦争も
徳川幕府軍は、サムライ精神で刀と槍(旧式銃含む) かたや薩摩、長州、土佐は、新式連発銃でした結果はご存知のとうり、「やあやあ我こそは○○いざお相手いたぁす」
の時代が終わってました
話がそれましたが、
真珠湾の責任をとって、更迭された
米連合艦隊司令長官
ハズバンド・キンメル
新任のチェスター・ミニッツ連合艦隊司令長官が最も力をいれたのは、情報であり、日本軍の暗号解読ですね、
当時ハワイにある
太平洋艦隊司令部暗号解読班は、150人、24時間体勢で日本軍の暗号を解読してました、
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ヨーロッパでは既に1941年のビスマルク追撃戦の時点でイギリス海軍、ドイツ海軍、共に戦艦にはレーダーを装備していてレーダー射撃で撃ち合っていたそうですから同じころ一方の太平洋戦域で戦い合っていた日本海軍とアメリカ海軍にはまだ出来ない芸当でした。
新型装備を一年早く使えるのと一年遅れて使えるようになるのでは雲泥の差で、戦時下であれば尚のことその僅か一年の間に遅れている側の国はズタボロにされてしまうことを意味します。
これは正に技術力の差です。
直接的な攻撃兵器には熱心だった日本軍上層部、反面間接的な防御兵器にはほとんど無関心。
というかそんな間接的な防御兵器の開発に熱心になっていたら、軍上層部からどやされ迫害される始末でした。
この考え方がよくなかった一大要因だと思います。
特攻をしなくてはならないようになったのもそうですが、持ってない技術を精神力でなんとかしろというのは現実離れし過ぎでした。
メンタル面を高く保つのは良いことですが、出来ることと出来ないことの分別はつけないとダメです。
特に戦争遂行の計画指揮をとる軍上層部にはそれがないとダメでしょう。 -
その昔(第一次大戦頃)、飛行機が戦争に参加し始めた頃からしばらくの間はその活動は天候によって大きく左右されるものでした。
しかし、時代が進むにつれて世界の国々は二度の世界大戦を経験し、徐々に近代化して行き天候にあまり左右されることなく活動が出来るようになって行きました。
そのように発達した戦闘機のことを全天候型戦闘機と呼びます。
昼夜天候変動の気象条件にほとんど左右されず活動出来る戦闘機という意味です。
戦艦に於いてレーダー射撃が出来るようになるということはそれに近い状態まで進化したということを意味します。
昼夜関係なく濃霧に囲まれ視界がきかなくなっても敵の位置を把握して射撃、命中させることが出来る能力を獲得したということです。
逆の言い方をすればレーダー射撃の出来ない戦艦は昼夜天候変動に左右される盲目状態の戦艦だといえます。
どっちが圧倒的に有利か判ると思います。
暗視装置付きの戦車と暗視装置なしの戦車が闇夜で撃ち合う状況と全く同じなのです。
いくらサイズの大きな大砲を持っていても敵に命中弾を与えることが出来なければ無用の長物ということです。 -
テレビで随時放送されリアルタイムなお茶の間の戦争報道、テレビゲームのような戦争と呼ばれた湾岸戦争。
イラク軍がズタボロに負けた大きな一大要因の一つに夜間暗視装置がありました。
イラク軍のほとんどが夜間暗視装置なんて装備しておらず、仮に贅沢な装備を与えられた部隊があったにしても古い世代の夜間暗視装置だけでした。
対するアメリカ軍を中心とした多国籍軍は戦闘機パイロットやヘリコプターパイロットから戦車兵、末端の歩兵に至るまで最新世代の夜間暗視装置や携帯型GPS装置などを普通に装備して戦いに従事していました。
陸でも海でも空でもイラク軍の兵士たちはあっけなく敵にやられてしまうはずでした。
視界が遮られる砂嵐や夜間の闇夜で敵には見られているが自分たちは見られていることすら判っていなかったわけですから無理もない。
盲目がゆえに自分がどの敵から撃たれたのかすらも判らないままに死んでいったイラク軍兵士がほとんどだったといいます。
本来撃つべき敵戦闘機や敵戦車が破壊し尽くされて居なくなった後のアメリカ軍兵士は他にターゲットが居ないものだから戦闘機やヘリコプターや戦車の中から夜間暗視装置越しに覗いたイラク人一人一人に照準を合わせ撃ち殺していっていました。
本来、人に向けて撃つものではなく軍用機や軍用車輛に向けて使う大口径機関砲や誘導弾を人に向けて撃っていたのでした。
その時の夜間暗視映像が公開されていました。
技術力の違いから圧倒的な戦力差が生じるとこんなことも起きるという実例でした。
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用途:戦闘機
分類:艦上戦闘機
設計者:堀越二郎
製造者:三菱重工業
運用者: 大日本帝国(日本海軍)
初飛行:1939年(昭和14年)4月
生産数:10,430機
運用開始:1940年(昭和15年)7月
退役:1945年(昭和20年)8月