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陸軍も海軍も次の戦闘機を開発する際には九七式戦闘機や九六式艦上戦闘機が要求性能の基準とされました。
その影響で海軍の零戦も陸軍の隼も機動性を良くするために相当な苦労を強いられることとなりました。
良くいいますよね、素晴らしいものを世に出した後、それを超える次の作品を世に出すことが最も難しいと。
乗っていたパイロットたちの多くと設計者の堀越二郎技師自身は零戦よりも九六式艦上戦闘機の方に思い入れが強く九六式艦上戦闘機の方が良かったと語っていたようです。
三菱では九六式艦上戦闘機の後継機として十二試艦上戦闘機という試作機が作られ、これが海軍に採用されて零戦一一型となりました。
零戦一一型に翼端折り畳み機構(両主翼端50cmのみ)と着艦用拘束フックと無線帰投用方位測定器などの本格的な艦上戦闘機仕様を施したのが零戦二一型です。
添付画像一枚目と二枚目は九六式艦上戦闘機。
三枚目は零戦二一型。 -
戦艦扶桑と山城は第一次大戦中の建造ですから旧式艦に分類されるのもしかたのないことかも知れませんね。
それから改装をたくさん行ったため、この二艦は艦隊で過ごした期間より改装のためにドック入りしていた期間の方が長いことで海軍内部でも知られていました。
この二艦は早い時期から重点的に改装をたくさん行っていたため、いざ戦闘をする際には他の艦より全ての装備品が旧式化していたのも旧式艦に分類されてしまう理由となっていました。
毎度毎度タイミングが悪かったともいえるでしょう。
最期はアメリカ軍からの多数の魚雷攻撃とレーダー射撃を受けて弾火薬庫の誘爆を起こし沈みました。
やはり日本はレーダーの技術が劣っていたのは相当痛かったですね。
日本ははじめは八木・宇田アンテナなどを作り出し世界的にも進んでいたのに軍上層部の先を見通す力のなさから早期開発を促進出来ず逆に阻害してしまい欧米諸国に追い越されてしまったことは返す返すも残念なことです。
陸軍などは戦利品の移動式レーダーの使い方を尋問中にイギリス軍捕虜から日本人なのにヤギアレイを知らないのか?
と逆質問され教えられる始末でしたからね。
全くあきれます。 -
ヨーロッパでは既に1941年のビスマルク追撃戦の時点でイギリス海軍、ドイツ海軍、共に戦艦にはレーダーを装備していてレーダー射撃で撃ち合っていたそうですから同じころ一方の太平洋戦域で戦い合っていた日本海軍とアメリカ海軍にはまだ出来ない芸当でした。
新型装備を一年早く使えるのと一年遅れて使えるようになるのでは雲泥の差で、戦時下であれば尚のことその僅か一年の間に遅れている側の国はズタボロにされてしまうことを意味します。
これは正に技術力の差です。
直接的な攻撃兵器には熱心だった日本軍上層部、反面間接的な防御兵器にはほとんど無関心。
というかそんな間接的な防御兵器の開発に熱心になっていたら、軍上層部からどやされ迫害される始末でした。
この考え方がよくなかった一大要因だと思います。
特攻をしなくてはならないようになったのもそうですが、持ってない技術を精神力でなんとかしろというのは現実離れし過ぎでした。
メンタル面を高く保つのは良いことですが、出来ることと出来ないことの分別はつけないとダメです。
特に戦争遂行の計画指揮をとる軍上層部にはそれがないとダメでしょう。 -
その昔(第一次大戦頃)、飛行機が戦争に参加し始めた頃からしばらくの間はその活動は天候によって大きく左右されるものでした。
しかし、時代が進むにつれて世界の国々は二度の世界大戦を経験し、徐々に近代化して行き天候にあまり左右されることなく活動が出来るようになって行きました。
そのように発達した戦闘機のことを全天候型戦闘機と呼びます。
昼夜天候変動の気象条件にほとんど左右されず活動出来る戦闘機という意味です。
戦艦に於いてレーダー射撃が出来るようになるということはそれに近い状態まで進化したということを意味します。
昼夜関係なく濃霧に囲まれ視界がきかなくなっても敵の位置を把握して射撃、命中させることが出来る能力を獲得したということです。
逆の言い方をすればレーダー射撃の出来ない戦艦は昼夜天候変動に左右される盲目状態の戦艦だといえます。
どっちが圧倒的に有利か判ると思います。
暗視装置付きの戦車と暗視装置なしの戦車が闇夜で撃ち合う状況と全く同じなのです。
いくらサイズの大きな大砲を持っていても敵に命中弾を与えることが出来なければ無用の長物ということです。 -
テレビで随時放送されリアルタイムなお茶の間の戦争報道、テレビゲームのような戦争と呼ばれた湾岸戦争。
イラク軍がズタボロに負けた大きな一大要因の一つに夜間暗視装置がありました。
イラク軍のほとんどが夜間暗視装置なんて装備しておらず、仮に贅沢な装備を与えられた部隊があったにしても古い世代の夜間暗視装置だけでした。
対するアメリカ軍を中心とした多国籍軍は戦闘機パイロットやヘリコプターパイロットから戦車兵、末端の歩兵に至るまで最新世代の夜間暗視装置や携帯型GPS装置などを普通に装備して戦いに従事していました。
陸でも海でも空でもイラク軍の兵士たちはあっけなく敵にやられてしまうはずでした。
視界が遮られる砂嵐や夜間の闇夜で敵には見られているが自分たちは見られていることすら判っていなかったわけですから無理もない。
盲目がゆえに自分がどの敵から撃たれたのかすらも判らないままに死んでいったイラク軍兵士がほとんどだったといいます。
本来撃つべき敵戦闘機や敵戦車が破壊し尽くされて居なくなった後のアメリカ軍兵士は他にターゲットが居ないものだから戦闘機やヘリコプターや戦車の中から夜間暗視装置越しに覗いたイラク人一人一人に照準を合わせ撃ち殺していっていました。
本来、人に向けて撃つものではなく軍用機や軍用車輛に向けて使う大口径機関砲や誘導弾を人に向けて撃っていたのでした。
その時の夜間暗視映像が公開されていました。
技術力の違いから圧倒的な戦力差が生じるとこんなことも起きるという実例でした。 -
太平洋戦争末期の日本本土でもアメリカ軍の戦闘機パイロットたちは民家や駅や列車や民間人に向けて機銃掃射を日常的に行っていました。
その当時のカラー映像とそこに居て運よく助かった人が出て来る本人証言の番組が去年末だったか今年始めだったかテレビで放送されていました。
九州の福岡近辺の映像でした。
アメリカ軍は正義の味方なんてことはいえない現実を突き付けた番組でした。
イラクでの話を考え合わせるとアメリカ人は現代でも太平洋戦争末期当時と変わらない相変わらずの行いを今尚続けている証拠といえるでしょう。
アメリカ人の頭の中と人殺しを楽しむ考え方は何も変わっていないということでしょう。
対比出来るように日本陸軍戦闘機の流れを書いた後に零戦開発の流れ。
(零戦の前々作→零戦の前作→零戦→零戦の後継機。)でした。
三菱では九試単座戦闘機という試作機が開発され、これが素晴らしかったためにその流れが続くこととなりました。
九試単座戦闘機を元に開発され日本海軍に採用されたのが九六式艦上戦闘機でした。
この時期に日本陸軍では中島飛行機製の九七式戦闘機が採用され、どちらの戦闘機も素晴らしいと絶賛され、この時期から以降日本はサンプル機以外の外国製戦闘機は輸入する必要がなくなりました。
添付画像一枚目と二枚目は傑作と絶賛された堀越二郎技師作の試作機、九試単座戦闘機。
三枚目は九試単座戦闘機から続く九六式艦上戦闘機の各型の側面図。