ソロモン諸島上空を飛行する零戦二二型
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ヘルシアさん、こんばんは。(゚▽゚)/
ターボチャージャーの元になった技術は民間船の低出力ディーゼルエンジンの出力向上のためのものとしてかなり前から存在していたようですよ。
以前何かで読んだことがあります。
第二次大戦初期、ドイツ軍は非武装のユンカースJu86Rという双発の偵察機を使いイギリス軍戦闘機が上がって来れないような高高度を飛行しながら悠々とイギリス本土の写真偵察(これが世界初の戦略偵察であり戦後からつい最近に至るまでのアメリカ軍はこのドイツ軍のコンセプトを模倣して発展させ戦略偵察を行っていました)を行っていましたが、当時はまだ航空機用ターボチャージャーが作られていなかったため動力用エンジンに送るための空気を別の空気圧縮用エンジンで圧縮して使っていました。
これで空気が極端に薄くなる14800m前後の高さまで上がり飛行していました。
とてもじゃないが当時の戦闘機が上がって来れる高さではなく手をこまねいて見ているしかない状況でした。
さすがは技術立国ドイツでした。
航空機用ターボチャージャーがないならないで何とかしていた、転んでも只では起きない。 -
第二次大戦当時で 高度
14800m前後の高さ とは 凄いですね、、
ここで、ベストセラー
「永遠の0」の著者
百田尚樹 氏 のなぜ零戦は日本人の魂を揺さぶるのか?
名人の名人による名人のための戦闘機、
優れた叡智と緻密な技術を備えた
サムライ精神が息づく
日本の歳高級品、零戦、
↑↑
本に在りましたので、
またゆっくりした時に書きます、
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何故か?エラーが出て画像一枚以外は他の画像も文章も反映されませんでしたのでもう一度貼ります。
少し脱線します。
申し訳ありません。
m(__)m
通常、空の高さも高度3000mを越えると空気が薄くなり始め、高度6500m前後を越えると自然吸気のピストンエンジンでは馬力が急激に低下し力が出なくなるそうです。
その苛酷な現象を逆手に取り、より高く更により高く高い高高度を飛べば同じ高さまで上がって来れる敵の戦闘機は居ない、高ければ高いほどに敵の高射砲の弾も当たり難くなるという発想から武装は装備していなくても敵にやられる可能性はほとんどないため低速で悠々と飛行して敵本土の偵察写真をじっくりと撮影して帰って来れるというドイツの戦略でした。
この賢い戦略をそっくり真似たのが戦後のアメリカ軍でした。
ジェット機としては速度は約800km/h(マッハ0.8)と遅いが25000mもの高高度を飛べるグライダーのような細長い主翼を持ったロッキードU-2ドラゴンレディという戦略偵察機を作り長年に渡りソ連領土内を写真撮影偵察を繰り返していました。
アメリカはソ連への領空侵犯はしていないとしらをきっていましたが、ミサイルが発達して以降SA-2ガイドラインという対空ミサイルによってアメリカのU-2が撃墜されパイロットが捕らえられるという出来事により領空侵犯の事実を認めざるを得なくなりました。
ソ連は撃墜したU-2数機の残骸を機体の形通りに赤の広場に並べ報道公開し、乗っていたパイロットを裁判にまでかけました。
その後パイロットの身柄はお互いが捕らえていたスパイ同士の交換引き渡しによりアメリカへ帰国出来ることになりました。
次にアメリカはU-2戦略偵察機の後継機として高度25929m前後の高高度で約3529km/h(マッハ3.2)もの高速度で飛行出来るチタニウムを機体に使用したロッキードSR-71ブラックバードという戦略偵察機を開発し近年まで使用し戦略偵察をしていました。
このSR-71は高性能を極めていただけに一機も撃墜されることなく退役しました。
現在では人的損害、軍用機の損害のリスクを考え戦略偵察活動は軍事偵察衛星が後を引き継いでいます。
添付画像一枚目はドイツのユンカースJu86R戦略偵察機。
二枚目上はアメリカのロッキードU-2ドラゴンレディ戦略偵察機、下はロッキードSR-71ブラックバード戦略偵察機です。 -
話がついつい脱線してしまいましたが、元々書きたかったのはこちらです。
対比出来るように日本陸軍戦闘機の流れを書いた後に零戦開発の流れ。
(零戦の前々作→零戦の前作→零戦→零戦の後継機。)でした。
三菱では九試単座戦闘機という試作機が開発され、これが素晴らしかったためにその流れが続くこととなりました。
九試単座戦闘機を元に開発され日本海軍に採用されたのが九六式艦上戦闘機でした。
この時期に日本陸軍では中島飛行機製の九七式戦闘機が採用され、どちらの戦闘機も素晴らしいと絶賛され、この時期から以降日本はサンプル機以外の外国製戦闘機は輸入する必要がなくなりました。
添付画像一枚目と二枚目は傑作と絶賛された堀越二郎技師作の試作機、九試単座戦闘機。
三枚目は九試単座戦闘機から続く九六式艦上戦闘機の各型の側面図。 -
陸軍も海軍も次の戦闘機を開発する際には九七式戦闘機や九六式艦上戦闘機が要求性能の基準とされました。
その影響で海軍の零戦も陸軍の隼も機動性を良くするために相当な苦労を強いられることとなりました。
良くいいますよね、素晴らしいものを世に出した後、それを超える次の作品を世に出すことが最も難しいと。
乗っていたパイロットたちの多くと設計者の堀越二郎技師自身は零戦よりも九六式艦上戦闘機の方に思い入れが強く九六式艦上戦闘機の方が良かったと語っていたようです。
三菱では九六式艦上戦闘機の後継機として十二試艦上戦闘機という試作機が作られ、これが海軍に採用されて零戦一一型となりました。
零戦一一型に翼端折り畳み機構(両主翼端50cmのみ)と着艦用拘束フックと無線帰投用方位測定器などの本格的な艦上戦闘機仕様を施したのが零戦二一型です。
添付画像一枚目と二枚目は九六式艦上戦闘機。
三枚目は零戦二一型。 -
0さん、よくわかりましたよ。三菱九試単座戦闘機、試作機九六式艦上戦闘機。
陸軍の中島飛行機製九七式戦闘機。
そして↓
三菱十二試艦上戦闘機、零戦一一型。
零戦二一型。
とつづくんですね、
またここで、百田尚樹の「永遠の0」から抜粋
↓↓
当時米軍の教え、
1930年代の当時、戦闘機は、国をあげてつくりあげるのが、飛行機、最先端テクノロジーを集めた 世界最高のもの、
当時の軍部と三菱スタッフでは、
軍部のとうてい無理難題の要求、
それを少しでも近いものをと堀越二郎。
確かに飛行機をつくるって大変な事で、
また機械工業、テクノロジー、科学に関して当時は、ヨーロッパが圧倒的に優れていて、アジアの国なんて全く認められていなかった、
アジアとヨーロッパでは大人と子供くらいの差があったようで、
でも、日本はヨーロッパアメリカの飛行機がかなわない戦闘機を突然つくり上げた、
最初アメリカ軍なんかは零戦にボコボコに墜とされるんですけど、もうこれは日本の戦闘機をなめていたとしか言いようがない、
「自動車もまともに造れない国が、アメリカの戦闘機に敵う戦闘機を造れるはずがない」と
スピード重視で戦闘機を造れば、空中戦能力が落ちる、小回りが利かない小回りが利く設計を重視すると、スピードが出ないと、矛盾が出てくる
各国がどちらに重視するかによって、その国が持つ戦争感、文化が現れる -
日本は最高の戦闘機を追及した、
海軍省が、のちに零戦になる十二式艦戦と言う
試作機つくれと、三菱に要求、
三菱側は「え"〜絶対無理」と
①世界のあらゆる戦闘機を凌駕するスピードの戦闘機、
②世界のあらゆる戦闘機と戦って、空戦能力を上回る戦闘機、
当時の技術で考えると、矛盾を越えていた、
それを三菱の堀越二郎という天才設計技士が、軍部の無茶苦茶な要求に応えて仕上げたのが、
零戦、
戦闘機は2機がお互いに最後尾を取り合う(権兵衛さんの言うドッグファイト?)前に固定された機銃で、巴戦?、
当然小回りが利く方有利 速さを重視したアメリカの戦闘機はすぐに後ろをつかれ、堕ちる
仮にアメリカの戦闘機が零戦のうしろにつけば、零戦はそのまま下にすぅーっとさがる、アメリカ戦闘機が追いかける、零戦は上に向かって宙返りアメリカ戦闘機は当然追いかけるが、重くて小回りが利かない、これで撃墜です、
零戦は後ろにつかれても、クルッと一瞬に、アメリカ戦闘機の後ろにつく
百田尚樹
↓
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アメリカ軍は
零戦にしてはならない、 「3つのネバー」を指示してます、
①ゼロと格闘してはならない
②ゼロと300マイル以下で、ゼロと同じ運動をしてはならない、
③低時速に上昇中のゼロを追ってはならない、
このネバーを犯せば必ずゼロから撃墜される、
しかし同時にゼロの弱点も見抜いていたと
それが防御力、
零戦は、世界最速のスピードと世界最高の空戦能力持つ飛行機ですが、
このため犠牲にしたのが (0さんの言われる)防弾装備、パイロットを守る背中の鉄板も無、翼にある燃料タンクも1発でも当たったら火を吹きますし零戦は墜ちる、
同時の戦闘機は500キロぐらいしか飛べないが、零戦は、3000キロ。
それだけ燃料が必要だから翼の中も利用するしかない、翼は最も撃たれやすい、
同時日本の零戦がなかなか墜ちなかったのは、
パイロットが超一流だったからで、
零戦は一流のパイロットが操れば、世界最高の戦闘機ですけど、普通の技量のパイロットが乗ったら 危険な戦闘機 まさに棺桶の飛行機ですね、
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海軍省の(三菱に発注)
十二式艦戦試作機
後の零戦
↑↑
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を抜粋、
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用途:戦闘機
分類:艦上戦闘機
設計者:堀越二郎
製造者:三菱重工業
運用者: 大日本帝国(日本海軍)
初飛行:1939年(昭和14年)4月
生産数:10,430機
運用開始:1940年(昭和15年)7月
退役:1945年(昭和20年)8月