ソロモン諸島上空を飛行する零戦二二型
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0さん、画像ありがとうm(__)mです、
画像は一目瞭然ですね、
航続距離とか、旋回機能、機銃の違いとか?
すみません -
世界的にもいち早く一撃離脱戦法に特化した戦闘機のご本家メッサーシュミットBf109Eはラジエーターを両主翼下に各一カ所、合計二カ所配置していました。
一方、日本の川崎飛燕Ⅰ型とイタリアのマッキMC202は両機とも共通して胴体中央の操縦席下斜め後方に配置していて日本人設計技師とイタリア人設計技師の考え方は近かったようです。
同じく液冷エンジン搭載戦闘機でドイツからアメリカへ移住した移民設計技師(エドガー・シュミット)が設計した第二次大戦期のベスト戦闘機だと世界的にも評されるノースアメリカンP51ムスタングも同様のラジエーター配置でした。
ちなみにイギリスのスーパーマーリン・スピットファイアはドイツのメッサーシュミットBf109Eと同様のラジエーター配置でした。
どちらが優秀だったかといえば冷却効率と空力特性や整備性、被弾時の耐久性などを総合して考えるとムスタングや飛燕やMC202の方式だと思われます。
イギリスとドイツは昔から常にライバル意識が強くどちらも複雑な造りでも高級指向の高性能なものを敢えて好むようなところがあったようです。
この両者は主脚の収納方法までそっくりでどちらも外翼側に引き込む方式でした。
わざわざそのようにした理由は機銃などの主翼内収納スペースを出来るだけ確保したいという考えからでした。 -
面白いものでライバル意識の強かったこの二国、ドイツとイギリス。
Bf109もスピットファイアも期せずして同じような主脚引き込み機構にしたお陰で主翼内の機銃収納スペースは確保出来たのですが左右の主脚の間隔(自動車でいえばトレッド幅)が必然的に狭くなり安定性が悪くなり離着陸が難しい戦闘機になってしまいました。
ここを良くすれば、あそこが悪くなり、という具合でまるでパズルゲームみたいな状況でした。
Bf109は翼面積を小さくとって加速性と速度性能重視の一撃離脱戦法を得意とするように作られ、スピットファイアは翼面積を広くとって小回りの効く巴戦を得意とするように作られた戦闘機で、性格は違っていましたが、使用する地域もヨーロッパで同じであり大きな意味での運用の考え方が似通っていたこともあり航続距離が短くどちらもせいぜい650〜700km前後しかありませんでした。
アジア太平洋地域を作戦活動範囲としていた日本の零戦(11時間近く飛び続けられる航続距離の長いタイプでは破格の距離3325km前後もありました)に比べると雲泥の差でした。
これも運用の考え方の違いからくるものだと思います。 -
ドイツのメッサーシュミットBf109は直線的な角角した翼で構成されたいかにもドイツ的、武骨なイメージの戦闘機。
イギリスのスーパーマーリン・スピットファイアは零戦の前作である九六式艦上戦闘機の翼にも似た葉っぱのような楕円翼で構成されたお上品な貴族的イメージの戦闘機でした。
と私は思います。
しかし、お上品な戦闘機とはいえスピットファイアは度重なる改良に次ぐ改良に耐え高性能なロールスロイス・マーリンエンジン→グリフォンエンジンに支えられ英国を守り抜きました。
これもひとえにマーリンとグリフォンという高性能なエンジンがあったからこそのお話でした。
そう考えると零戦を筆頭に日本の戦闘機は信頼性ある高性能エンジンがなかった故に軒並みどの飛行機も改良すれども性能上がらずばかりの繰り返しで苦汁を舐め引いては太平洋戦争に敗戦する結果に結び付きました。
日本よりはエンジン技術が進んでいたアメリカも当時はイギリスに比べれば未熟なエンジン技術でしかありませんでした。
イギリスからのマーリンエンジンの技術供与によりエンジンを換装し世界的な最優秀戦闘機に生まれ変わったノースアメリカンP51ムスタング戦闘機も当初はマーリンエンジンをアメリカでライセンス生産する前段取りで話を持ちかけられた際アメリカのエンジン製造メーカーはとても自分たちの技術力では手に負えないと尻込みしたそうです。
それくらい液冷式エンジン技術分野ではイギリスとアメリカの間で技術格差があったようです。
今の日本人はアメリカは凄いアメリカは凄いと只単に思い込んでいる節が多分にありますが、レーダーにしてもジェットエンジンにしても様々な兵器分野ではイギリスにたくさん教えてもらい戦後はナチスドイツから奪った技術を元にして学び今現在のアメリカになっているのでした。 -
元を辿ればジェットエンジンも後退翼もロケットやミサイルもミサイルの誘導技術もステルス技術さえも第二次大戦後にナチスドイツから奪った技術が元になっています。
宇宙開発技術も同じです。
アメリカが元々持っていた技術ではありません。 -
>>422
しかしながら
ダイムラー製エンジンのあまりの緻密で繊細なエンジンを
日本の技術では均一性をもって量産することも整備する事も出来ませんでした
「飛燕」の低い稼働率は遅れた技術と体制そのものを如実に表しており
欧米、とくに当時世界最先端の工業力を誇ったドイツは雲泥の違いでした
大戦中に日本に寄港したドイツ潜水艦にたいして
日本側が技術を習得したいという思いもあって、整備させてほしいと申し出ましたが
ドイツ側はそれを激しく拒絶して、いっさい触らないでほしいと返答しました
自分たちの命を預けるものに日本の遅れた技術で整備してほしくないという
当時のドイツ潜水艦の乗組員の気持ちが痛いほどわかります
当時の日本の技術を過大評価してはあまり意味がありません
欧米とは歴然たる、超えられない壁があったのです
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412で書いておいた通りです。
エンジンさえ信頼性が高ければ…と。
但し、エンジンの信頼性が低かった要因は当時の日本の技術力不足もありますが陸軍の場合は必要不可欠な金属材料の使用制限があったことも大きな要因です。
たとえ仮に技術力があったとしても本来必要な金属材料を使ってはいけないと禁じられたら作れるものも作れるはずがない話でした。
それから潜水艦の技術にしても基礎的な技術からしてドイツと比較したら日本の方が技術力が低く運用知識も低かったのは周知の事実です。
エンジンのマウント方法なんていう基礎的な部分から違いがありました、それも周知の事実ですよ。 -
日本から遥々ヨーロッパのドイツ軍占領下のフランスのロリアンまで行って再び日本まで戻ることが出来た遣独隊の伊號潜水艦は帰りはノイズが静かになって帰りました。
エンジンのマウントから何からノイズ発生源低減のための手直しをドイツによって行ってもらったからでした。
という具合にこのような基礎的部分から日本とドイツの技術力の差は歴然でした。
他の多くの分野でも同様でした。
しかしそれは皆さん知っている話です。
その上で敢えて関連話を書いている話なのです。
何でも始めからダメダメといってしまえば話はそこでおしまいでしょう? -
ビックリしてました、
↓↓
ジェットエンジンも後退翼もロケットやミサイルもミサイルの誘導技術もステルス技術さえも第二次大戦後にナチスドイツから奪った技術。
宇宙開発技術も同じです。
アメリカが元々持っていなかった。
ドイツと言う国はすごいなぁ、
今でも、madeinジャーマニィ、は高級品ばかりですね、
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ナチスドイツもよくよく突き詰めていくと正しくは全てがナチスドイツだけの力ではありませんでした。
ナチスドイツは第二次大戦が始まってからというもの最初は十分に強力な軍事力は持っていなかったにもかかわらず他の国にはなかった様々な巧みな戦術の甲斐あって破竹の勢いでヨーロッパ全域をほぼ手中におさめました。
もちろんドイツ自体が屈指の技術力を持った国であったことは疑う余地もありませんが、そこに占領地域の国々が開発していたものを取り込み更に強力な技術大国に成長していったためドイツ以外の先進国より十数年から二十年近くも先を行く断トツの技術立国になったのでした。
第二次大戦の終わり頃になると進攻していく連合軍のその先に発見されるのはアメリカもイギリスもソ連も目を見張るような先進技術の開発物の数々でした。
そのため戦争も終わり間際に近付くと連合軍の各国はお互いにナチスドイツの先進技術による試作品の争奪戦の様相をていしていました。
そして戦後はアメリカもソ連もナチスドイツから我先に接収した先進技術+ナチスドイツの科学者たちを基礎として兵器開発と宇宙開発を達成しました。
現在のジェットエンジンの主流は軸流式ジェットエンジンですが、この軸流式ジェットエンジンは元を辿ればナチスドイツが開発の主軸に据えていたジェットエンジン。
他の国々が開発の主軸に据えていたのは遠心式ジェットエンジンでした。
スプートニクもアポロも月面着陸もナチスドイツからの技術流出がなければ当分の間実現出来なかった可能性が高いです。
アメリカとソ連のジェット軍用機はどちらもナチスドイツから奪い取った技術を基本にして発展したため、不思議なくらいに似通った部分だらけです。
一方そんな世界の流れを横目に見ながらちょっと冷めた目をしていたのがイギリスでした。
人一倍プライドが高いイギリス人はアメリカやソ連のように露骨にナチスドイツの技術の真似をしようとはしなかったためイギリスが戦後開発した軍用機はスマートなものが少ないです。何だか野暮ったい系が多いです。
しかしイギリスにはジョンブル精神というものがあるため頑なだけど独自に技術はしっかりしています。
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用途:戦闘機
分類:艦上戦闘機
設計者:堀越二郎
製造者:三菱重工業
運用者: 大日本帝国(日本海軍)
初飛行:1939年(昭和14年)4月
生産数:10,430機
運用開始:1940年(昭和15年)7月
退役:1945年(昭和20年)8月